2024年3月23日土曜日

2024年3月17日

 2024年3月17日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「一粒の麦」 森田喜基牧師

 ヨハネによる福音書 12:20-26節

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」イエスがなぜこのタイミングでこれを語られたのでしょうか。エルサレム入城で大歓迎を受け、フィリポとアンデレにギリシア人たちがイエスに会いたいので仲介してほしいと頼んできた時、彼はどれほど嬉しく、また誇らしかったでしょうか。ところがイエスは彼らの喜びや大きく膨らんだ期待を一蹴するかの如く、語り始めたのです。それがこの一節です。通常「一粒の麦」が「死んで」芽が出たとは言わず、「芽を出した」と言うでしょう。しかしイエスは、あえて「死」という言葉を用いて、ご自身の十字架の上の死を重ねて語られました。ここで「一粒の麦」が語られた理由は、これから歩まれる十字架への道が、弟子たちの抱く期待、人々の歓声とは全く違う方向に向かうものだったからです。多くの人々がイエスを歓迎し、期待する時、弟子たちはその人々の期待をイエスが裏切らないように望みました。イエスが弟子の足を洗われた際、ペトロは「私の足など決して洗わないでください。」と人々に仕える模範を示されたイエスを拒みました。ヨハネ福音書4章には、イエスとサマリアの女との交流が描かれますが、この女性との関わりは、ユダヤ人からは受け入れがたいものでした。イエスの歩みは、人々の期待に必ずしも沿うものではなく、むしろ受け入れがたい方向へと進み、皆から歓迎され、尊敬される立場に執着し、留まることをされませんでした。それが正に十字架への道であり、そのお苦しみの中で、イエスは皆から拒絶され、その結果、孤独の中に生きる人々と寄り添われたのです。ここに希望があります。25節「自分の命を愛する者は、それを失う」とは、自分の大事にしているものを手放さず、執着する生き方であり、神に支えられて生きよというメッセージに、自分を委ねることのない生き方です。26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」十字架へと歩まれたイエスの生き様に学びつつ、私たちが今、誰と出会い、誰と共に生きることが、真の命、永遠の命に生きることなのか、改めてこの受難節に自らの歩みを見つめたいと思います。そしてまた私たちがどんなに挫折し、苦悩することがあっても、一粒の麦として十字架の道を歩まれ、そして復活されたイエス・キリストが、私たちの前を十字架を背負って歩んでおられ、共にいてくださることに、全てを委ねて歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。


2024年3月15日金曜日

2024年3月10日

 2024年3月10日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「わたしもイエスさまに香油を塗りたかった」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 12:1-8節

 歴史学者である中島岳志は、『「利他」とは何か』という本のなかで、近代・現代社会は人間の意志によってすべての行為が行われているということが強調されすぎていると言います。しかし私の意志とは思えないような思いに駆られて、このことをしたいと思うということがあるわけです。「ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは、「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をします。」・・・。「私はあなたを愛している」というのも、「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」。私が合理的にあなたを解析して好きになったのではなく、どうしようもない「愛」というものが私にやってきた」。

 マリアが香油をイエスさまの足にぬったのをみて、イスカリオテのユダがマリアを叱ります。人の家のお金に使い方について、どうこういうというのは、現代であれば控えるべきことであるような気もします。しかしイスカリオテのユダの言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉も、そんなにおかしなことでもないような気がします。合理的な正しい意見のような気がします。

 しかし正しい意見であるからこそ、そこに愛がないことに配慮をしなければならないのだと思います。イスカリオテのユダの言ったことは、正しいけれども、愛がないのです。そしてまた先のことは、私たちにはわからないのです。イエスさまが十字架につけられたあと、みんなあとから思ったのです。「ああ、あのとき、マリアがイエスさまの足に香油を塗ってさしあげて、葬りの備えをしてあげることができて、ほんとによかったよね」。そのようにみんなあとから思ったのです。「わたしもイエスさまに香油をぬってさしあげたかった」とみんな思ったのです。「合理的に考えるとなんかちょっと変だよねと思えることだったし、イスカリオテのユダがそのことをはっきりと口に出して、マリアを叱ったけど、でもなんかマリアは何かに突き動かされるように、イエスさまの足に香油を注いだんだよね。いまから考えると、あのとき、マリアがイエスさまに香油を塗って差し上げて、ほんとによかったよね。神さまの導きとしか思えないね。聖霊の働きだよね」。

 私たちもまたイエスさまに仕えるマリアであるのです。イエスさまのために良いものをおささげしたいという思いをもっています。自分の思いとも思えないほど、きれいな思いが私たちのこころのなかにあるのです。神さまが私たちにくださる愛による思いなのです。神さま、どうか私たちを、あなたの良きことのために用いてくださいと祈りつつ、このレント・受難節のときを過ごしたいと思います。


2024年3月3日

 2024年3月3日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「人は去っても、われらは信ずる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 6:60-71節

 私たちの教会が属しています日本基督教団は、1941年6月24日に30数教派の教会の合同によってできました。アジア・太平洋戦争の時代です。日本基督教団は国家による宗教団体管理の流れのなかで、国家によって合同させられたという面があります。ナチス・ドイツまたもドイツの教会を国家の管理下に置こうとしました。そうしたなかでこうした国家主義的な教会の動きに反対する告白教会と言われるグループが出てきます。告白教会の人々は迫害にさらされながらも、ナチス政府を批判し、神さまの言葉に教会が固く立つことを求め続けました。

 ヨハネによる福音書は、ヨハネの教会がとても大きな危機的状況の中にあるときに書かれてあります。ユダヤ教から異端として追放されるという状況の中で、自分たちの信仰を確立するか、あるいは会堂から追放されることを恐れてユダヤ教にとどまるのかということが問われたのでした。そして実際にヨハネの教会に残る者とヨハネの教会から去っていく者が出てきました。

 信仰というものは、とても不安定なものです。イエスさまから離れていかないような強い人には、信仰は必要ないのです。イエスさまから離れていく弱い者に、信仰は必要なのです。でも弱い者が持っている信仰ですから、その信仰は強いものではないでしょう。私たちは使徒ペトロのように信仰を告白しながらも、一方で自分の中にイスカリオテのユダを抱えて生きているわけです。私たちは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白しながら、心の中にイスカリオテのユダを抱えているのです。しかしもう一方で、私たちは「イエスさまから離れたくはない」という思いを持っています。この弱い信仰しかもっていない、弱く惨めなわたしを救ってくださる方は、イエスさましかおられないという思いを持っています。

 ヨハネによる福音書は「人は去っても、われらは信ずる」という信仰に立って書かれています。しかしそれは自分たちがりっぱな信仰をもっているということではありません。「わたしはりっぱな人間だから、たとえ人は去っていっても、わたしはイエスさまを信じます」ということではありません。「自分は弱く惨めな者で、自分の中には確かなものなどない。だからこそ、永遠の命の言葉をもっておられるイエスさまにすがるしかないのだ」ということなのです。

 信仰生活の中で私たちは自分たちの信仰の弱さに出会います。ちっぽけな信仰しか持ち合せていない自分に出会います。しかし弱く惨めな私たちだからこそ、イエス・キリストは私たちを憐れみ、御手でもってしっかりと支えてくださっています。イエス・キリストを信じて、この方により頼んで歩んでいきましょう。


2024年3月2日土曜日

2024年2月25日

 2024年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「わたしに注がれる神さまの愛がある」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 9:1-12節

 青木優牧師は、ヨハネによる福音書9章3節の御言葉に出会い、クリスチャンになり、牧師になりました。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。青木優『行く先を知らないで』(日本基督教団出版局)の中にかかれてあります。「私は、イエスが「お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ」と語りかけておられるのを感じた」(P.32-34)。

 私たちの生きている日本社会は、ここ数十年、ゆとりがなくなり、自分のことだけを考える人たちが増えてきました。自己責任ということが過剰に言われるようになり、弱い立場の人たちを攻撃して、悪者探しをするようなことがよく行われました。悪者を探し続けましたが、あまり良い社会になりませんでした。

 イエスさまのお弟子さんたちは、生まれつき目の見えない人を見て、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言いました。弱い立場の人を見て、その人や家族の人たちに罪を見いだそうとして、自己責任の世界にありがちな、犯人探しをしたわけです。

 しかしイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。私たちの神さまは、困っている人や立場の弱い人たちをおとしめたりするような社会を望んでおられるはずがない。神さまは愛に満ちた方であるから、困っている人や立場の弱い人が健やかに生きていくことができるために、私たちをお遣わしになっているのだ。「神の業がこの人に現れるために」、だれしも神さまの愛の内を歩んでいて、神さまの業がその人のうえに働くのだ。私たちはだれも神さまの愛の中に生きている。すべての人に神さまの愛が注がれているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

 いろいろな出来事の中で、不安になったり、行き詰まったりすることが、私たちにはあります。「どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのか」。そうした出来事に、私たちは出会うことがあります。神さまの祝福から、わたしは外れているような気がする。そうした気持ちにさえなることが、私たちにはあります。

 しかし生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされたように。イエスさまから「神の業がこの人に現れるためである」と声をかけられたように、私たちにもまた神さまの愛が注がれているのです。

 わたしに注がれる神さまの愛があるのです。恐れることなく、神さまを信じ、神さまを信頼して歩みたいと思います。神さまを見上げつつ、こころ平安に歩んでいきましょう。


2024年2月24日土曜日

2024年2月18日

 2024年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「罪人らしく連帯しようよ」 熊谷沙蘭牧師

 ルカによる福音書 16:1-13節

 神学者のケネス・E・ベイリーはこの箇所の直前にある「放蕩息子のたとえ」と重ねて読むことができると解釈しています。「不正な管理人のたとえ」と「放蕩息子」にはいくつもの共通点があります。1つ目は身勝手な人が登場して、それを驚くほど寛大に受け止める人がいること。2つ目はお金を浪費する人が登場すること。3つ目は、お金を浪費した人はそのことを父や主人に受け止めてもらうことで新しい道が切り開かれていくこと。4つ目は、お金を浪費した人の運命は父や主人が握っており、父や主人の憐れみにすがることによって生きることができていることです。

 このたとえは、主人が神を表し、管理人が人間を表しています。管理人は主人のお金を横領して好き勝手している姿は、神から与えられているものを好き勝手して生きる人間の姿です。断罪される時が来た時に、不正な管理人は真剣に生き残る道を考えました。その生き残りを賭けた方法が他者の借金を棒引きするという驚くべき方法でした。借金は神への罪を表します。好き勝手してきた人間は生き残るために、他者の罪を勝手に赦すという、他者と共に連帯して生きていく方法を取るのです。決して褒められたやり方ではないですが、好き勝手な生き方をしてきた人間がここでようやく、誰かと共に生きる道を探し出すのです。主人(神)はその方法を褒めました。罪深い人間の打算的な行動であっても、他者と共に生きるという道を神は褒められたのです。

 私たちが神を信じて生きることも、不正な管理人と同じではないでしょうか。「隣人を愛せよ」と言われるイエスの言葉を、どこか打算的に自分の保身を計算しながら行おうとします。また自分も罪深い人間でありながら、人の罪を赦してあげようとします。私たちはどうやってもイエスの憐れみにすがらなければ、信仰を持って生きていると言える人間ではないのです。私たちが誰かと共に生きるということは、打算も身勝手さも引きずりながら、それでも神様、互いを助け合い生きていきますよと神の前に立つことなのではないでしょうか。美しくも綺麗でもないこの姿を神は褒められています。そこにこそ神の救いと憐れみが表れているのです。

 罪人であることは開き直ることでも、諦めることでもありません。互いが神・イエスの憐れみを得て生きるということなのです。信仰生活とはそのことを通して他者と連帯していくことなのです。


2024年2月17日土曜日

2024年2月11日

 2024年2月11日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「小さきわたしを用いられる神さま」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 6:1-15節

 美学者の伊藤亜紗は初めてアイマスクをして伴奏者と走る経験をすることによって、人を信頼することがなんと気持ちの良いことであるのかということと、そしていままで自分がいかに人を信頼していなかったかということに気づきます。(伊藤亜紗の『手の倫理』、講談社選書メチエ)

 この伊藤亜紗の経験は、私たちが信仰ということを考える時に、「ああ、たしかにこういうことってあるよね」と思える経験です。はじめは神さまを信じ始める時、ちょっとおどおどしながら信じているわけですけれども、しかし「やっぱりわたしは信じたい」という思いで信じます。するといままでになかった安心感を得ることができます。神さまを信じて生きていくことの幸いを、私たちは感じます。もちろんときに信じられなくなったり、不安になったりすることもあるわけです。しかしそれでも私たちは神さまが私たちを守ってくださり、良き道を備えてくださることを信じて歩みます。

 この「五千人に食べ物を与える」という物語は、とても具体的な話です。悩みは具体的なものであり、そしてとても切実なものです。そして切実なるがゆえに、また「ほんとうにその望みは叶うのだろうか」という疑うこころも私たちの中に起こります。弟子たちはイエスさまの奇跡をいままで経験しているわけです。それでも弟子たちの中には、信じきれない気持ちがあります。

 しかしイエスさまは、少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹を用いてくださり、五千人に食べ物を与えるという奇跡を行われます。弟子たちからすれば、「何の役にも立たないでしょう」と思えるものを用いて、イエスさまは五千人の人々を満腹にされました。

 小さな者である私たちを愛し、そして私たちを用いてくださる神さまがおられます。私たちは神さまの祝福のなかを歩んでいきたいと思います。そしてまた神さまに用いていただきたいと思います。私たちのわざは小さな業かもしれません。しかし神さまは私たちのその小さなわざを喜んでくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2024年2月10日土曜日

2024年2月4日

 2024年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「神さまのお守りの中にある。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 5:1-18節

 沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット)には、全国のハンセン病療養所に建てられている貞明皇后の歌碑について書かれてあります。「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という短歌です。国家によって隔離政策がとられ、家族から棄てられ、以前の友だちに連絡を取ることもできず、孤独を味わった人たちにとって、この歌は、慰めの歌であったのでした。

 エルサレムの羊の門のそばにベトザタという池がありました。その池にときどき天使がやってきて、池の水が動く時に、一番先に水の中に入ることができると、どんな病気であってもいやされるというふうに言われていました。そのため病気の人たちは、近くの回廊に横たわって、水の動く時を待っていました。そのなかに38年もの間、病気で苦しんでいる人がいました。

 このベトザタの池も、なかなかしんどいところです。いつ水が動くということがわかっていないわけですから、まあそれまでは病人同士で、「こうしたらちょっと痛みが和らぐよ」というような話がなされ、いたわりあいがあるのではないかと思います。でも水が動いたら、そうしたいたわりあいなどなかったかのように、我先にと水の中に飛び込まなければなりません。そうでなければ、自分の病気は治らないのです。38年間病気であった人は、38年間、自分も含めた病気の人たちの争いを見続けてきたのです。こころもすさんでくることになります。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という彼の言葉は、そうした絶望の叫びの言葉であるのです。

 イエスさまはこの病気の人を癒やされました。安息日の出来事でしたので、ユダヤ人たちは安息日違反だと、イエスさまを非難します。イエスさまは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われました。神さまは憐れみ深い方で、苦しんでいる人、悲しんでいる人を、見過ごされる方ではないと、イエスさまは言われます。あなたがいくらお祈りしても、今日は安息日なので、あなたのお祈りを聞くことができないのだと、神さまは言われない。神さまは悲しみの中にある人、苦しみの中にある人のために、いつも働いておられる。だからわたしも神さまと同じように、安息日であろうと、病気で苦しんでいる人々を癒やすのだと、イエスさまは言われました。

 私たちの神さまは、私たちの悩みや苦しみ、またやるせない気持ちをご存知です。そして私たちを愛してくださり、私たちに良き道を備えてくださいます。神さまが私たちのために働いてくださっている。このことを信じて、私たちもまた神さまの御心にそった歩みでありたいと思います。共に祈りつつ、共にこころを通わせ合いつつ歩んでいきましょう。