2018年4月16日月曜日

2018年4月8日

2018年4月8日 復活節第2主日礼拝説教要旨
  「あなたに」 桝田翔希伝道師
  マルコによる福音書 16:14~18節
この一週間、ニュース番組では舞鶴市で行われた大相撲巡業でのことが繰り返し報道されました。日本の神様にささげる相撲の土俵には女性は上がってはいけないということなのだそうです。今日わたしたちが生活している社会では、ほとんど宗教による制約を感じることは無くなっています。しかし、世界を見渡してみますと宗教上の理由で男女をわけ隔てたり、人をわけ隔てるようなことはごく普通にあります。私たちはそのような光景を「自分たちには関係のないこと」としてとらえているように思います。しかし、今日の聖書箇所を読んで、私たちも宗教に基づいて人をわけ隔てることがあるように思いました。
 さて、この聖書箇所では「生き返った」ことを信じない弟子たちの前にイエスが現れ、「全てのものに福音を宣べ伝えなさい」と語っています。次に洗礼を受ける者は救われる、と排他的にも感じることも語っています。ここでは、クリスチャンにならないと救われない、そう語られているように見えます。洗礼と言われますと、どこか私たちは入信儀礼のように思ってしまいます。しかし、キリスト教が始まった頃の礼拝を研究している学者は、洗礼がユダヤ教のあるグループで清さを保つために繰り返し行われていたことも紹介しています。私たちは洗礼の「罪の洗い流し・罪の気付き」という意味を忘れてはなりません。
 洗礼を受けないものは救われない、イエスはそう語っているわけですが、これは狭い意味でクリスチャンでなければ救われないということではないと思うのです。そして、すべてのものに福音を宣べ伝えなさい、そうとも語っているわけです。これは宗教をも超えた真理をイエスが示しているのです。私たちもついつい、宗教によって、キリスト教によって人をわけ隔ててしまう時があります。しかしイエスが復活を通して弟子たちに示した「復活の真理」、自分の命をも超えた真理はわけ隔てるような狭いものではありません。復活節にあって、イエスの真理を共に歩みましょう。

2018年4月9日月曜日

2018年4月1日

2018年4月1日 復活節第1主日礼拝説教要旨
  「新たな歩みへ披(ひら)かれて」 小﨑眞牧師
  ヨハネによる福音書 20:24~29節

 今年度、平安教会の代務者として招かれ心より感謝致します。さらに本日のイースターには受洗者も与えられ、不思議な出会いと導きを大変嬉しく思います。さてトマスの伝承を通して主イエスの復活の喜びに出会いたく思います。私たちの多くは「見ないで信じること」の意義を学ぼうとしてきました。その姿勢は聖書の中で重要なテーマでもあります。しかし、私たちは日常生活の中で自身が体験した「過去の物語:見た事、聞いた事」」に常に縛られています。そもそも聖書の中で、信じることは「人間の側からの何ものかではなく、主の側からの何ものかであり」、「信じることのできる原動力、主導権は神の側」にあると理解されてきました(小野一郎『ヨハネによる福音書』)。一方、「見ないのに信じる」姿勢は倫理のごとく迫り、その姿勢を絶対化します。「見て信じる」姿勢は不信仰なのでしょうか。その責任は人間にあるのでしょうか。
 山浦玄嗣(ケセン語聖書翻訳者として著名)さんはこの箇所を「しょぼくれるなトマス」との副題を付けケセン語(東北ケセン地方の言葉)で翻訳しています(『ガリラヤのイエシュー』)。彼は復活の主とトマスの言葉の行間に本質を聴取します。弟子集団に居ながらも孤独感や寂寥感にさいなまれるトマスに関心を払いつつ以下のごとく記します。
お前はその眼で俺を見だからやっと本気にしたが?
      んでもな、いいんだ、気にすんな!当たり前だ。
 「気にすんな!当たり前だ」とのイエスの語りは多くの励ましを与えます。私たちの信仰生活においても想定外の出来事に対して「なぜ私が」との嘆きや疑いを発する場面があります。この人間の悲嘆の只中に主が介入する事実をトマスの伝承は語っています。以下の言葉を通し主イエスの真理に出会いたく思います。
人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか、人間は神様に会うことはできない。(森有正『土の器に』)
 恥じや苦悩の只中にある私たちに対して、主イエスは十字架上の傷を示し、痛みを分かち合おう(共苦)と迫ってきます。ここに私たちの思いを超えた新たな世界が切り披かれ、イースターの喜びが創出します。

2018年3月25日

2018年3月25日 棕梠の主日礼拝説教要旨(宇野牧師最終)
  「神とみ言葉にあなたがたをゆだねます。」 宇野稔牧師
  使徒言行録 20:17~35節

 3年間の勤めを終えるにあたり皆さまとの最終礼拝及び、受難週初日の礼拝に臨んでいます。「季節の風」春号と併せて受け止めてください。
パウロはユダヤ人中心のエルサレムの教会から疎まれながら命がけで地中海全体に教会を創ってユダヤ人以外にもイエス・キリストを宣べ伝えたのでした。そう云うパウロの働きはエルサレムにいるユダヤ人たちにとって許しがたいもののように思えたのですが、彼はどんな抵抗があっても自分の確信を曲げることなく邁進したのです。パウロは世界の都であるローマに行きたいと願いつつ、その前にエルサレム教会を訪ね地中海の至る所にキリスト教会が生まれ、育っている事実を伝えなければならないと決意しました。エルサレム教会がユダヤ人だけでかたまり、パウロが生み育てた教会が分裂することを危惧したのでしょう。
しかし、ユダヤ民族の裏切り者というレッテルを貼られているパウロがエルサレムに行くことは危険極まりないものでした。旅路の途中ミレトスにはエフェソの長老たちを呼んで遺言のような説教をしました。それは彼が教会という群れを世話し守っていくように最後に云い残した言葉でした。すなわち「交わり」です。教会においては愛の交わりが実現していることが大切なのです。だからこそ、何時も祈りと聖書に真剣に学ぶことです。み言葉が真理だからです。
パウロは3年間のエフェソの教会では嬉しい楽しいのみならず、夜も昼も涙を流していたともありますが、目を覚まして真理の到来を見つめているのです。それがキリスト者だと云います。涙を流す状況にでもキリストが存在するのを見つめて祈るのです。パウロは離れざるを得ないのです。困難があるだろうけれども彼自身何も出来ないのです。だからその中で「神とみ言葉にあなた方をゆだねます」と語りました。み言葉が人を造り上げるのです。3年間でしたが共に信仰生活が楽しく生き生きとできたことを大変嬉しく思います。お祈りありがとうございました。

2018年3月18日

2018年3月18日 受難節第5主日礼拝説教要旨
  「新しい権威ある教え」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 4:31~37節

 故郷ナザレで人々の怒りを買い殺されそうになるという事件の後、イエスはカファルナウムの街に移り、そこで会堂にて聖書について語りますが「その言葉に権威があった」と記されています。具体的な内容については、示されていませんが、「人々は非常に驚いた」のですから、今まで聞いていた話とは全く違った教えだったのでしょう。
 そのイエスの言葉の中身を考えるためにルカが書いているのが「汚れた霊に取りつかれた男が癒される」という物語なのです。ここで語られている汚れた霊とは何のことでしょうか。「汚れた霊」という言葉でイメージするのは、人間の心と体に悪いことを生じさせる目には見えない力のことです。パウロはガラテヤ書5章19節に日茶飯事に起こる数々の事柄を述べていますが、根本的な危険が人間全体を襲っていることのサインだと云っているのです。逆に云うと、それほど人間の日常が悲しい状況であると物語っているのです。つまり、これを読むときに客観的に見ている人間の一人として読んでしまうのですが、実は汚れた霊に取りつかれている人とは、私たちなのだということです。人間は「汚れた霊」に支配されています。私たちの日常は「汚れた霊」に襲われるように生活していないでしょうか。そして自分が傷つき相手を傷つけるような生き方をし、それを嘆き苦しみながら生きているのではないでしょうか。
ところが今日の聖書は、イエスが語ると悪霊から解放されて生きることが出来るようになったと云うのです。さて、それはどんな言葉かというと、ルカ6章20節以下の山上の説教だったのではないかと考えます。汚名を着せられている人は幸いだと語ったのです。本当に驚くべきことであり、信じられないような言葉でした。しかし、信じられない宣言が力を持つのは「神があなたを愛しておられる」という事実があるからです。この事実で基盤が変わるのです。イエスの教えは生活の基盤が「神の愛」であるという宣言なのです。言葉が力あることを知り、力ある「救いの言葉」であると驚いたのです。

2018年3月26日月曜日

2018年3月11日

2018年3月11日 受難節第4主日礼拝説教要旨
 「救い主は我々の間におられる」 宇野稔牧師
 ルカによる福音書 4:16~30節
 ルカはイエスの宣教を書き始めるにあたって、故郷ナザレに帰った話から始めます。安息日に会堂に入って礼拝を守るのです。聖書の朗読が行われ会堂長からイエスは指名されます。渡されたのはイザヤ書61章でした。読み終えて巻物を返した時、ナザレ村の人々は一斉にイエスに注目したと云います。読まれた中に驚く言葉が「今日、この言葉は実現した」というのです。人々は驚きと同時に「この人はヨセフの子ではないか」と云います。それに対してイエスは毅然として「預言者は故郷では歓迎されない」と云い二人の預言者を挙げて、救いの言葉はむしろ異邦人の中から実現されると話したのです。それを聞いたナザレの村の人々は激怒しました。イエスを殺そうと思うくらいに激しい怒りをぶつけて来たのです。
 しかし、イエスは怒涛の中、人々の間を通り抜けたとあります。どんな方法か、様相だったかわかりません。ただ、憤る人々のただ中を当たり前のように歩まれたのです。大変不思議なことですが、何故人々はイエスを殺そうと思うほどに怒ったのでしょうか。ガリラヤは革命的な雰囲気の強い町で、この時期は資本の集中が進み、地域経済が破滅しかかっていたのです。ナザレの村も例外でなく土地を手放し小作労働の貧農として生きなければならない人が多かったのです。人々の不満は爆発寸前にありました。その人々が最後の望みとしていたのが、イザヤ書の「復興預言」でした。それを実現する救い主を待望していたのです。
 その時イエスが語ったのは、復興の実現ではなくむしろ異邦人に対する神の憐みだったのです。敵と思っている異邦人にも神の恵みは与えられるという意味が「今日、実現した」という宣言だったのです。神が敵のような私を愛して下さったのだから、あなた方も恩讐を捨ててイエスの愛を生きる者になりなさいと云われています。
受難節、イエスの苦しみは赦すための苦しみでした。愛と赦しのキリストが我々の間にいて下さるのです。

2018年3月20日火曜日

2018年3月4日

2018年3月4日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「優れた方とは」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 3:15~22節
 混乱と困惑の時代にバプテスマのヨハネが現れて、神の裁きの日が近いので悔い改めるようにと人々にすすめます。神の前に悔い改める必要があると説いたヨハネの言動に人々はヨハネこそメシアではないかと思うのです。しかしヨハネは自分が救世主であることを否定し16節を語り、自分はやがて来るメシアと比べるなら僕の値打ちもないと云ったのです。ただイエスが来ることを人々に宣べ伝え、何者であるかについて語ったことこそヨハネの使命だとルカは考えたのです。さらに重要な役割がイエス・キリストに洗礼を授けたということでした。しかしながら、ヨハネの洗礼は神の前に罪を犯した人がそのことを悔い改めるものでしたが、どうしてイエスはこの洗礼を受けられたのでしょうか。
 確かにイエスは神の子なのですから、全てを支配することが出来るでしょう。その方がその権威と力の一切を行使せず、洗礼を自ら受けることによって本当の救い主とはどういうものかを示されたのでした。全能の神が人間に徹底的に共にいようとする、悲しみ、辛さ、寂しさ、切なさ、全てを担い背負う、そういう愛が人を本当の意味で救うということを示すことだったのです。罪の洗礼を人と共に受けることに置いて、救い主の姿を表して下さったのです。ヨハネはイエス・キリストを「私より優れた方」と紹介していましたが、優れたという「にんべん」は人間が互いに支え合っている姿です。「あなたの憂いを自分の憂いとする」のです。ご自分の痛みをご自身の痛みとして下さった、それが神の愛なのだということをイエスの洗礼は示しているのです。
 私たちは神に愛されている存在です。全能者の愛を受ける存在なのです。神はここにおられ、ここであなたを愛し、あなたと共に常に一緒です。私たちの憂いをそっと担おうとして下さっているのです。優れた方が来られる。ヨハネは私たちに救い主を紹介したのです。確かに受け止めましょう。

2018年3月13日火曜日

2018年2月25日

2018年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「霊の力に満ちて」 宇野稔牧師
    ルカによる福音書 4:14~15節
 イエスは宣教を始める前、荒野で祈りつつどのような仕方で人々を救うか考えられ、徹頭徹尾神の愛によって人を救うという結論に至り、その宣言の箇所です。ポイントは「霊の力に満ちていた」という言葉をどう理解するかでしょう。イエス・キリストに従うのがキリスト者なのですから「霊の力に満ちている」という表現もイエスの姿として描かれると同時に、キリスト者がどのようなものであるかを語っている所と云えます。
 教会の中には非常に熱心な伝道活動をする教会があります。しかし、多くの教会は「聖霊を受ける」ことを強調されているように思えます。「霊」というものは、聖霊のことで「見えないけれど私たちに働きかける神の力」のことです。さらにもっとも重要な決定的な霊の働きとしては神と人間を結びつけることです。不思議なことに今まで何でもなかったキリストの言葉が今の自分自身への神のメッセージとして響いてくることがあるのです。ある時は決断を促す言葉として、ある時は忍耐を求める言葉として迫ってくるのです。それこそが聖霊の最も大きい働きなのです。モーセはエジプトで奴隷であったイスラエルを導いてエジプトから脱出し約束の地に人々を導いた時、とても苦しい状況の中で神は必ず民を救って下さると確信し何事にもうろたえなかったのです。パウロは獄中にとらえられていつ殺されるかわからない状況の中で「喜びの手紙」を書き「感謝」「恵み」という言葉が出て「霊の力に満ちて」いるからと云うのです。
 この二人は死と隣り合わせの毎日を送っているのですから、心の中には焦燥が生まれ、不安と闘っていたことでしょう。その思い当たるのがキリストは十字架の死に至るまで徹頭徹尾耐えられたし、へりくだられ、愛して下さったという事実でした。その恵みを私たちは信じているのですから、苦難の中でも喜び感謝して生きているのです。それが「霊の力に満ちる」という生き方です。