2016年12月27日火曜日

2016年12月11日

2016年12月11日平安教会創立140周年記念礼拝説教要旨
  「土台はイエス・キリスト」薛恩峰牧師
  (桜美林大学チャプレン・専任講師)
  (Ⅰコリント信徒への手紙3章1〜23節)

 私は平安教会で育てられた牧師です。本日、創立140周年記念礼拝を皆様と共に捧げることができた幸いを、まず父なる神に感謝申し上げます。
1876年12月10日、20名の信徒が集まって平安教会を発足させました。この教会で出会い、集う多くの先達の祈りと心が重なって、これまでの歴史は織り成されました。今、私たちに求められているのは、先達が遺した信仰の遺産を受け継ぐ決意を新たにすることではないでしょうか。
 二千年来、代々の教会は「説教」「信徒の交わり」「聖餐」「祈り」を最も大切なこととし、主イエスが復活された日を記念する礼拝を熱心に守り続けてきました。キリストの復活は我々に与えられた大いなる希望だからです。それゆえ、「私たちの国籍は天にある」と告白しているのです。「是非ともイエス・キリストの福音の根本的な意義を覚えなさい」。これは、本書簡の主題だけでなく、新約全体の主題でもあります。「教会の土台はイエス・キリストである」。教会は、この信仰告白の上に教立っているのです。パウロは、こう注意を促します。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(3:16)。
 もし教会の中に聖霊の臨在と信仰による敬虔さがないならば、教会の存在する理由はないのです。人々は教会に何を求めて来るのか。教会は万事お金の世の中にあって、お金で買えない聖なるもの、人を真に生かせる福音の宣教を神から委託されているのです。それを遂行するのが教会の使命です。聖霊こそは教会を元気づける源です。ぜひ聖霊の助けと導きを祈り求めてください。本日の記念に下記の聖句を皆様に贈ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5:22~23)。
創立140周年を迎えた今、主にある兄弟姉妹たちが教会と信仰の原点に立ち返って思いを新たにし、岩倉の地において神の栄光をいよいよ豊かにあらわしていくことができますよう願ってやみません。皆様の働きの上に主の祝福が豊かに注がれますように。ア-メン。

2016年12月20日火曜日

2016年12月4日

2016年12月4日アドベント第2主日礼拝説教要旨
  「不安の中での安らぎ」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書2章1〜7節)

 クリスマスを待つ時間の中を歩んでいます。平和を心から祈りつつも平和な世界にならず心を痛め続ける日々の中に立っています。世界は混乱や紛争が繰り返され、国内でも深刻な問題続発し、不幸な事故や凶悪な事件が起きています。また超高齢化社会、格差社会となり、年金や介護や貧困の問題など、ますます難しい状況になり、孤独や不安が広がっています。また、愛する者の死や病気や災難など、悲しみや苦しみで満ちているのです。
 今年も全国のあちこちで地震災害が頻繁に起こりました。しかし、暗い現実の中だからこそ、平和の主イエスがお生まれになられます。「マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とあります。ベツレヘムの馬小屋で名もない大工の家に子どもが生まれるというニュースは人々の注目を引くような大きい事件では決してありませんでした。確かに羊飼いの他にはベツレヘムの村人さえ知らなかったのですが、それが世界の歴史の中心点となるような事件となったのです。世界の片隅でひっそりとした静から出来事が、実は世界に大きな喜びの歌声を響かせていく事件となっていくのです。
 クリスマスの讃美歌は沢山あり歌われますが、その中でも有名な「きよしこの夜」(264)があります。大塚野百合さんの「讃美歌と大作曲家たち」によれば、「まぶねの中に」と訳されたことは意味深く、十字架に至るキリストの姿を象徴していると云われています。何も問題がないから静かで安らかであるというのではなく、苦難と不安(激動)の象徴である「まぶね」の中で安らかであるというのです。まさに264番の讃美歌に響いているのは、この世にはないような不思議な天国の静けさ、安らぎなのです。
 私たちもアドベントのこの期間、安らかに静かに思いを馳せ、イエス・キリストを想いつつ一日一日を大切に歩みたいものです。


2016年12月12日月曜日

2016年11月27日

2016年11月27日教区交換講壇礼拝説教要旨
  「水を飲ませてください」徳舛和祐牧師
  (ヨハネによる福音書4章1〜22節)

  人間イエスだって、喉が渇けば水が欲しくなるのは当たり前です。「神の力」を持ってすれば、何事でも出来る筈です。手を伸ばし、掬い取れば渇きは失せたはずです。でもそうしなかった。この世の掟にしなかったのでした。
 水がすぐ手に入らぬのが、乾燥地帯なのです。道端の井戸であっても所有権があり、勝手に釣瓶を下ろすのは死を意味するのでした。イエスが寄り掛かった井戸は、ユダヤ人の軽蔑するサマリア人の持ち物でした。
 そこの女に、薄汚れた何処とも知れぬ旅人の姿で請うたのです。ここに差別する哀れな者にも膝つきよっていく姿があります。「どうしてサナリアの女の私に、」と、土埃まみれの、ユダヤ人の頼みは女性に取っては、疲れていようが、女性には、渇いていようが知ったことではなかったのです。打っちゃっておいてもよかったのです。ここに、場面を転換するものがあったのです。それは、語り掛けてくるイエスの声ではなかったでしょうか?差別の中で、孤独に生きる者にその壁を取っ払う、今まで聞いたことのない声でした。聞こえていても聞こえないのではなく、「羊は私の声を聴き分ける」(ヨハネ10:16)。
 神との出会いは、この女性への語り掛けの様に、1対1の中で、方向を失ったものへの働きかけなのです。呼びかけなのです。一人の戸惑う者へ、神の方へ向かわせる、体を震わせる何か得体のしれない、つき動かす「言葉」が、この時の彼女をすくったのです。キリストは、生きて行く上での渇きを知っておられたのです。それは「生きた水」に対する渇きです。
 今、私達が生活を送るうえで受ける、あえぐ様々な渇きです。それを主イエスは知っていて居られるのです。サマリアの女は、今、目の前にいるユダヤ人が何者であるか、考える事となります。私達も、今、語り掛けてくる聖書の言葉が、誰の言葉かを真剣に考えなければならないと(11-12)で呼びかけておられます。今日から始まるアドベントは、イエス降誕の前にこの1年の自分をさらけ出して、神に倣うものであったかを、問うていただきたい。
                              アーメン

2016年12月5日月曜日

2016年11月20日


2016年11月20日 収穫感謝 子どもの教会合同礼拝説教要旨
  「地は主の慈しみに満ちている」宇野稔牧師
  (詩篇33篇1〜7節)


 日本でも世界でも沢山悲しいことがあります。世界は悲しいことに溢れているようです。しかし今日は収穫感謝の日です。沢山の実りがあることを神さまに感謝する日で、神から恵みを頂いていることを再確認するという意味があります。

 詩篇の作者は「この地は神さまの慈しみに満ちている」と云っています。でもこの人も沢山の哀しいことを観ていたに違いありません。悲しくて泣きたくなったこと、辛いことも沢山あるけれども、それでもこの世界には神さまの恵みが沢山あるんだということを謳っています。

 「少女パレアナ」という本を知っていますか。色々悲しいことや辛いことがある中で、彼女はそれにめげないで生きていきます。その力は、お父さんが彼女にゲームを教えてくれた「喜びを見つけるゲーム」です。「どんな時にも神の恵みがあることを忘れないで」という教えでした。

 彼女のそんな生き方が、周囲の人たちを感化して喜びを広めて行くという物語なのです。お父さんは、「いつも喜びは見つけるもので、中々見つけにくいかもしれないけれど、聖書の中にも沢山の言葉がある」、と言います。「主にありて喜べ」とか「大いに喜べ」とか「喜び歌え」などあるように、神様の恵みはこの地に満ちているのだ、お父さんも喜びを探し、見つけて感謝しているのだ」と。

 またもう一つ大事な事は、神様からの恵みを見つけて獲得したからといって、それを一人占めにするのではなく、皆で恵みを分かち合うことによってお互いを支えることが出来たら、その時悲しみや辛さも分かち合うことが出来るのです。

 そして悲しいことがあるこの世界の中でもあなたが希望をもって生きることが出来るのだと確信がもてるのです。

 神様は、喜びも悲しみも分かち合うようにとお望みです。そして、この収穫感謝礼拝もそのことを皆で確かめる時なのです。


2016年11月28日月曜日

2016年11月13日

2016年11月13日 主日礼拝説教要旨
  「キリストに結ばれている」宇野稔牧師
  (フィリピの信徒への手紙1章1〜2節)
  パイオニア・オーシャン・ビュー(POV)教会交流礼拝

 姉妹教会としての歩みを始めるに当たり、5人のメンバーをPOV教会(アメリカ)よりお迎えすることが出来ました。心より歓迎し喜びいっぱいです。そういう意味で何故今朝はこのテキストでしょうか。
 この手紙はパウロの獄中からの喜びの通信と言われています。人間は幸福な時に喜ぶのは普通ですが、喜べない方が返っておかしいのです。しかし、喜ぶ事の出来ない時に喜ぶのは大変難しいのです。パウロは獄中でありしかも殉教を目前にして緊迫した状況にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜び」という字が多くあります。
 ここで教えられるのは、喜びの根拠をどこに置いているのかということです。私たちはキリスト教を信仰しつつもその生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないでしょうか。今日の箇所で「キリストの僕」パウロと「キリストに結ばれている」フィリピの教会という両者の関係がその喜びの内容なのです。 
 丁度、平安教会とPOV教会にもそのことが重なるのではないでしょうか。1節の「結ばれている」というのは「エン・クリスト」、即ち「キリストにある」であり、「キリストに出会う」と訳すと伝わりやすいのです。
 私たちはキリストに出会っているから「聖」なるものとされており、キリストによらなければ「聖」ではありません。この意味は立派というものではなく、「神のもの」なのです。私たちは能力や資格で結ばれているのではありません。私たちはキリストに結ばれて、教会に連なりそして、仲間となり友人となっているのです。人間的には弱く歪んだものです。しかしそういう私たちであるにもかかわらず、キリスト・イエスの十字架と復活に結ばれることによって「神のもの」とされたのです。これが原点です。苦しいときは励まし合い、感謝し、喜びあえるのはお互いがその原点をもっているからです。
 キリストに結ばれたものとして、広い大きな視野に立ち、共に歩き始めたのです。

2016年11月21日月曜日

2016年11月6日

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝説教要旨
  「生涯の日を数える」宇野稔牧師
  (詩篇90篇3〜12節)

 お名前が記されている669名の方を覚えての礼拝です。死は自然のことでありますが、12節には生涯の日を正しく数えるように教えて下さいとあります。しかし数えるとはどういう意味でしょうか。数えるとは必ず死があるということです。限界のある生涯を送るのは、どのように正しく数えていくのか、即ち、神の前にどのように生きて行くべきかなのです。故に、その知恵ある心を得させて下さいと要求されていると思うのです。
 しかしながら、人間の知恵とは賢くはありません。例えば、愛する人々の死を前にして、何故何故と問い続けてしまいます。こんなにも早くなら間違いではないですか、と。死と向き合う時、神の御業を現すべく生涯の日を数えて行かなくてはならないのに、主の御旨を正しく知るということは、中々わからないものです。しかし、一人の人生はその長短ではありません。この世に生きている、この世にいなくなっても生きている間に神の前にどう生きたかがものを云うのです。まさに、キリストに結ばれた者は、命なくとももの種であるということを教えられます。
 人は死んでも今なお語るということは本当です。私たちの生涯は罪と死の恐怖から救い出されました。このイエス・キリストの死が何のためだったのか、このことを正しく考える時に、その事自体が知恵ある心となるのです。十字架の死がこの罪と死の力を打ち破って私たちを救い上げて下さったのです。ですから、このことを信じ受け入れることが知恵ある心であり、<主を畏れる>ことは知恵の始めであるとあるように、主を畏れ主のなされる御業を受容することです。
 私たちは恵みにより救いにあずかっています。恵みにより生きているものは、命なくてももの種なのです。従って生きるにも死ぬるにも、この身に公然とキリストの御業が現れることを願うのが、おのが日を数えて生きる者の姿ではないかと思うのです。
 先に召された669名の兄弟姉妹の上に、主の豊かなお慰めをお祈りします。

2016年11月15日火曜日

2016年10月30日

2016年10月30日 主日礼拝説教要旨
  「神を愛し、人を愛しなさい」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書12章28〜34節)

 このテーマは教会の使命であります。平安教会ではバザーの週であり、使命を果たすために皆が祈りと共に励むのです。
 一人の律法学者が「最も大切な教えは何か」と尋ねた時、イエスは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答え、そして、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られたのです。それに対して律法学者は「先生、おっしゃる通りです」と同意し、「あなたは神の国から遠くない」という言葉をもらっています。
 ここで考えさせられるのが、有限な存在である人間が永遠の存在である神を愛することが可能かどうかという点です。それは我々が「神を愛す」瞬間を生きる時があります。それを永遠の生命と呼ぶのだと思うのです。つまり、限りある人間が神との協働の中で神の永遠の生命の一部となるのです。その最も象徴的な行為が礼拝です。ロマ書12章1節でパウロが語っています。私たちのために生命をささげて下さったイエス・キリストのために私たちが自分をささげること、それが礼拝です。平安教会は140年の歴史を与えられています。これまで以上に自覚的に確実に「希望」をもって使命に生きるのです。
 さらにイエスの言葉は、「教会は礼拝さえ守ればよい」のではありません。神を愛すると同時に人を愛する事を求めておられます。これを解説したのがサマリア人の喩えです。そして最後に「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。答えはサマリア人です。
 隣人を愛することの根源は、相手の痛みに共感することです。同じように痛むことです。これこそ今日の教会の使命であると同寺に宣教の使命です。即ち、使命はどちらかだけになってしまっては教会の本質的な生命を失ってしまうのです。34節に「あなたは神の国から遠くなり」と律法学者に云われた意味は、知識として納得するのと神の国にはいるということは関係がないと示されたのです。神の国は知識の問題でなく、そこに入らなければならない。イエスが一つの決断を促された言葉です。

2016年11月8日火曜日

2016年10月23日

2016年10月23日 主日礼拝説教要旨
  「神のものは神に」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書12章12〜17節)

 この所は最後の論争物語です。ここからは力の戦いが始まります。その主題になったのが納税問題でした。ファリサイ派とヘロデ党は納税について考えを異にしていました。ファリサイ派は民族主義の強い人間でしたから、ローマに税金を支払うことを心よしとはしなかったのですが、ヘロデ派は逆にローマに税金を支払うべきだという立場だったのです。それ故にイエスはどちらの側の態度を示すのか、はっきりさせようとしたのです。
 それはイエスを自分たちの味方につけようと考えたのでなく、イエスを陥れるための証人として存在しているのです。イエスが「税金は皇帝に支払うべきだ」と云えば、ファリサイ派はユダヤ民族の裏切り者と呼んで人気を落とそうと考えていたのです。
 一方、「皇帝に払わなくてもよい、神に返すべきだ」と云えば、イエスをローマに対する反逆にを指導したと云うことで逮捕させるのです。どちらにしてもイエスの死につながる言葉尻を捉えようとする罠だったのです。
 絶対絶命のピンチの中でイエスは見事に切り返します。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」でした。イエスの答えに彼らは驚き、それからは論争によって仕掛けることはなくなったのです。つまりイエスは先ほどの言葉によってこれを誰のものと考えているのか、という問い掛けだったのです。
 信仰をもっていると云いながら、世渡りの事のみを考えてお金を頼みとしているのがヘロデ派であり、神のことを語りながら人の事ばかり見ていたのがファリサイ派でした。「本当にこれを神のものと思うなら、どんなに危険でも神に返しなさい」と云われたのです。痛烈な批判であり、問い掛けでした。
 そして、この言葉は私達に向けてもチャレンジです。皇帝のものと考えてしまうのか、それとも皇帝の刻みの中になお神のものであると認めて行くことは、そこにもなお神の支配があり歴史の支配が神であることを信じることなのです。さらに、「あなたはわたしのものだ」と語りかけて下さっている言葉ではないでしょうか。「私は神のものだ」その思いで歩みましょう。

2016年10月31日月曜日

2016年10月16日

2016年10月16日 主日礼拝説教要旨
  「小さいって素晴らしい」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書12章32〜34節)

 主イエスは弟子に向かって32節「小さな群れよ、恐れるな」と語ります。小さな群れとはその特徴は第一に信仰のことです。それは信仰が薄いということです。それは神から目を離すということを指しています。
 マタイ14章28節以下にイエスが湖上を歩いて現れたという話しがあります。ペテロが船を出て歩いて、主イエスの元に行こうとします。ところが強い風を見て怖くなり、水の中に沈みかけます。その時、主イエスはペトロの手を取り「信仰の薄い者よ」と云われたのです。
 ペトロが沈みかけた理由は、イエスから目を話し暴風雨に目を奪われてしまったからです。
 私達は、食べ物飲み物のことだけでなく、生きて行くために降りかかる暴風と思えるような様々な課題や困難に直面しますが、そんな時神から目を離してしまうため、水の中に飲み込まれそうになるのです。それは信仰の薄さからなのです。
 信仰が薄いとは、よく観察せず、考えず、悟らないということです。主イエスは「鳥のことを考えてみなさい」「野の花のどのように育つか考えてみなさい」と語っておられます。それはぼんやり見ることではなく、よく見て神が私達の命を守り支えていて下さることを悟ることです。
 特徴の第2は、罪人の群れであるということです。主イエスは当時の律法学者たちを金持ちに喩えて、ルカ12章13節以降にある喩え話しをされました。人は律法を守る正しさ、即ち、自分の行いによって自分の生命を救う事はできないということです。
 小さな群れとは素晴らしいと思いませんか! なぜなら一人ではなく、2、3人でも主の名によって集まる所に神は共にいて下さいます。                              (マタイ18章20節)
 私達は信仰の薄い小さな罪人の群れです。しかしこの私達の真ん中に主イエスがいます。そして私達に語られます。「小さき群れよ、恐れるな」。この小さな群れを世に遣わして下さいます。隣人を愛するために、神を愛するために。

2016年10月25日火曜日

2016年10月9日

2016年10月9日 主日礼拝説教要旨
「何も恐れることはない」宇野稔牧師
(マルコによる福音書12章1〜12節)

 イエスキリストの説教の特徴は喩え話しでした。今日の箇所はマルコ福音書の中での最後の話しです。この喩え話しには特別な意味が含まれているとマルコは云います。
 一人の人が出て来ます。この人は相当な設備の整ったぶどう園を作り、それを農夫に貸し与えて旅に出ます。農夫たちとは約束があり、収穫を終えたら小作料として一定の金額を支払うというものです。これに対して、イエスの喩え話しは逆なのです。主人が遠くにいることを良いことに、農夫たちは小作料を払おうとしなかったのです。この主人は僕を送り、自分の責任を果たすように説得させたのですが、農夫たちは耳を傾けず、逆に彼を袋たたきにして殴り殺したのです。
 ついに主人は「自分の息子を送ろう。この子なら敬ってくれるだろう」と決意するのですが、その息子も殺されてしまうのです。素晴らしい主人に対してあまりにひどい農夫たち、裁かれて当然とイエスは語ります。
 祭司長たちはこの時に自分たちへの皮肉だと気づきます。主人は神のことで、農夫は自分たちであることを気づき、神の信頼を裏切ったのだと指摘されるのです。人間は裏切りに弱いのです。裏切られる前に裏切って生きる人間になろうと考えます。私達は自分を守るためなら信頼を裏切ることも辞さないのです。
 彼らはイエスの本当に云いたいことに気づいていません。この喩え話しには続きがあって、実のところは10節と11節で、家造りが捨てた石を角の親石とするというのです。不必要として裏切られ、捨てられたものを神が最も大切なものとする。それは神の不思議である、というのがイエスの云いたいことなのです。つまり、「あなた方は人を見て恐れているが、本当に恐れるべきものは神なのです。あなたが神の御心に沿って生きていたら、何も恐れることはない。もし人に捨てられても、裏切られても、神があなたを活かして下さるからだ」と云いたかったのです。
 私達がこの約束を信じて生きるならば、裏切られることを恐れずに隣人愛に生きられるのです。私達の光をキリストが歩いて下さっています。

2016年10月17日月曜日

2016年10月2日


2016年10月2日 主日礼拝説教要旨
  「愛という権威」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書6章6〜11節)
 エルサレム神殿で商人を追い出したイエスのところに、当時のユダヤの最高権力者たちが来て、「何の権威によってあんなことをしたのか」と尋ねます。自分たちの権力を公衆の面前で見せつけようとしたのでしょう。
 その問いに答える代わりにイエスは「バプテスマのヨハネは何の権威で悔い改め運動を行ったか」と尋ねました。すると、彼らは困ってしまって、なぜならバプテスマのヨハネが正しいと認めると、ヘロデによる処刑をなぜ黙認したのかと責められ、彼は正しくなかったと明言すると彼を崇拝している人たちの恨みを買うことになるのです。彼らは「わからない」としか答えられなかったのですが、この問答でイエスは、彼らの権威の中味を明らかにしたのです。彼らが恐れているのは、神ではなく人だったのです。
 イエスは「それなら何の権威でやっているのか私は云わない」と。ここで不思議な点は「お前たちは人の権威をかざしているが、私は神の権威で生きているのだ」と明言なさらず沈黙している点です。
 そうです、イエスは権威を語るのでなく、権威を生きたのです。神が本当の権威であるということを言葉でなく、生きたのです。即ち神の愛です。イエスの権威は愛でした。愛は言葉ではなく生活でした。自分は権威者だと言葉で宣言するのではなく、苦しんでいる人と共に生きられたのです。
 ただ愛を生きることで、愛こそが真の権威であることを証ししたのです。そこに人々は本当の権威を見出したのです。そして私達はこの真の権威によって支えられているのです。私達の最も悲しい時、孤独な時、辛い時、その私達に最も近くにいて下さったのが、イエス・キリストだったのではないでしょうか。
 愛という権威に生きて下さったイエス・キリストは今も愛という権威に生きておられます。今日は、世界宣教の日・世界聖餐日の礼拝として守っています。京都教区でも韓日合同礼拝を守ります。世界中の教会が愛という真の権威で平和な世界の樹立に心を向け祈って参りましょう。

2016年10月11日火曜日

2016年9月25日

2016年9月25日 主日礼拝説教要旨
  「ここは祈りの家である」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書11章15〜19節) 
 エルサレム神殿には過越の祭りのために世界中からユダヤ人が集まって来ました。捧げものをする準備の場として「異邦人の庭」という前庭があります。そこにイエス・キリストが入って行き、商売人や両替人を追い出し、また境内を近道にしようとしていた人の邪魔をしたというのです。
 イエス・キリストは捧げものや礼拝を否定される方ではありません。そこにいた全ての商売人たちを追い出したというイメージですが、そんなことは不可能なことです。
 ということはイエスの行動は「象徴行為」だったということになります。それは17節のイエスの言葉によりはっきりします。イエスは現在の神殿が「強盗の巣」であるといいます。このことはエレミヤ書7章に基づいていると考えられています。エレミヤは不正がまかり通って弱い者がさらに弱くされ、貧しい者がさらに奪われているということに対して怒っているのです。
 日常生活の中で弱い人々から強盗するように富を奪い取っている者が神殿を巣窟にしているという非難なのです。本来、神殿は貧しい人々がそこで力を得るためのはずなのに、神殿が社会の中で貧しい人たちをより苦しくするという機能の一端を担っていて、そこで大祭司も祭司もその一族もその役割の中でのうのうと生活している、、、、そうした神殿の現状を「強盗の巣」であると非難されるのです。
 イエスのしたことは、エルサレム神殿には救いがないということであり、本当の救いのためにはもうエルサレム神殿は必要なくなったということを示す行為だったのです。では救いのために何か必要なのでしょうか。イエスは「私の家は全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」といいます。救いのために必要なもの、それが「祈り」です。それが教会の核なのです。
 祈りというのは、この世界の現実の中に神が働いておられることを確認する術なのです。そして全ての人にその「祈りの場」を提供することこそ、教会にイエス・キリストが望んでおられるからなのです。

2016年10月4日火曜日

2016年9月18日

2016年9月18日 主日礼拝説教要旨
  「キリストの言葉を聞く」宇野稔牧師
  (ローマの信徒への手紙10章14〜17節)

 「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、人間は資格で確かめようとする傾向が強いのです。私たちも神を見ることを求めてしまうこともあります。要するに視覚で神を確かめたいのです。しかし、「神を見たものはいない」のです。では、神がいるかどうか確かめるのにはどうしたらいいのでしょうか。
 パウロはこう云っています。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです」と。私たちはキリストの言葉を聞くことから信じることが始まるのです。私たちはキリストの言葉を聞くことが可能だからこそ云えるのです。
 さらにパウロは、「神の言葉は世界の果てにまで及ぶ」と云いました。パウロは使徒として歩み出す前にキリスト者を迫害し、男女の別なく見つけては投獄していたのです。しかし、ダマスコ途上でイエス・キリストとの出会いを経験するのです。この出来事はパウロにとって衝撃的な出来事であったに違いありません。彼はこの経験を通して罪の力の大きさを知り、同時に自分の小ささや惨めさを知る機会であったのです。衝撃を受けて逃げるように「アラビア」という地域に行きました。それは「地の果て」という思いがありました。ところが、その地の果てのような所でパウロは驚くべき神の声を聞くのです。「わたしがあなたを異邦人への使徒として選んだ」。地の果てにまで神の声は響いている。孤独の果にまでも。
 こんな惨めな自分を神は使徒として仕わそうとして下さる。イエスは失敗を許し、失敗を含めての事であること。その時、パウロはイエス・キリストの言葉、「あなたは私の愛する子、わたしの愛する友だ。だから大丈夫、生まれ変わってわたしの使徒として生きなさい」。信仰は聞くことにより始まります。地の果に、心の果に響いているのです。
 今日は恵老の日の礼拝、80才以上の方々44名を覚えます。その歩みにおいては如何なる時も「神の言葉を聞く」生活を続けられました。と同時に聞いたことを隣の人に語ることも含めて歩んでおられます。信仰の先輩方に倣いましょう。




2016年9月27日火曜日

2016年9月11日

2016年9月11日 主日礼拝説教要旨
  「『見失った羊』に目を注ぐ」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書15章1〜7節)

  ここに徴税人が出て来る。当時のユダヤ人社会でローマの手下になって同胞から税を取り立てる忌まわしいとされていたのです。イエスはそのような閉鎖的固定的イメージから人を解放しようとされたのです。だからタブーであったにも関わらず、イエスは「徴税人や罪人」と食事を共になさったのです。(1節)。
 「徴税人」が解放されて、見失われた人が見つけ出されること、天では「大きい喜び」だとイエスは告げます。
 私たちはこの喩えを読む時、自分の外、他者の事柄として読みますが、自分の中の事柄として考えたい。私たちの中に100匹の羊がいて、特別な一匹の羊、迷い出た羊がいる、誰もが見せたくない他にも云えない、出来れば忘れたい一匹を持っているのです。その一匹は時には人を引きずり廻し、人生を狂わせるような一匹です。しかし、イエスはその一匹が大事であり、その一匹を意識の中に呼び出せと云うのです。その一匹が連れ出され意識されることをイエスは一緒に喜ばれるのです。
 もう一つの話しはザアカイの話しです。19章8節にイエスは食事を共にするだけでなく、「今日是非あなたの家に泊まりたい」に対し「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と云うのですが、救われたにも関わらず、「弟子の条件」として自分の持ち物を一切捨てねばならない(14章33節)のに「財産の半分」としか云えません。これが人間の現実なのでしょうか。半分を捧げるとしか云えないような「一匹の羊」、つまり弱さを持っているのです。
 しかし、「半分」としか云えない弱さをイエスは受け止めて下さるのです。弱さこそ探し出し、受け止めるイエスについて「私たちの弱さに同情できない方ではない」(ヘブル4章15節)と語ります。
 またパウロは「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ』と云われました。だからキリストの力が私の内に宿るようなに、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12章)とあります。弱さを神に投げ出して、他の人の中の一匹の羊に配慮出来るものになりたいのです。



2016年9月19日月曜日

2016年9月4日

2016年9月4日 主日礼拝説教要旨
  「必要とされるわたし」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書12章9〜14節)

 ある日イエス・キリストが左手の萎えた人と出会います。そして直ちに「手を伸ばしなさい」と云われ、その人を癒やされました。その日は安息日で何もしてはならない日であったので、律法の明確な違反行為でした。
 しかし、キリストはこの行動を通して人々の無関心さを強く批判し、全てのことを差し置いてでも最優先されるべきであることを示されたのです。
 それは、苦しみ悲しみの中で助けを求める人の声を決して聞き漏らさない感性から来る、些細な出会いを決して疎かにされない姿勢でした。「一期一会」という言葉があります。茶の湯の心得を教えているものです。同じことの繰り返しのように思える日常は、実は一期一会の繰り返しなのです。
 この「手の萎えた人」は、不自由があるという身体的な困難を背負っているだけではなく、手が萎えるということを罪を犯した結果であると決められていて、罪意識を植え付けられ「罪人」として差別されるという苦しみの中で、どれほど悲しい暗い日々を過ごして来たかということに気づかねばなりません。必要なことは想像力なのです。
 安息日に会堂を訪れ、神の恵みと慰めとを求めている者と、その切実な思いを無視してなおその人を差別しようとしている人々と対比の中にイエス・キリストは自らの行動を通して模範を示されたのです。
 「今、この時に自分を必要としている」人との出会いは日常のどのような時にも起こります。その機会を決して見逃さないのが、イエス・キリストの示す神の愛なのです。自分のためにだけ生きようとしてはなりません。自分を必要としている誰かがいるということに想像力を働かせましょう。イスラエルの人たちは律法を守るということに一生懸命になり過ぎ、人の状況がみえなくなってしまっていたのです。それは、自分一人が神の前に正しい者(律法を守っている)になりたいという願いからでした。
 信仰に熱心な人は律法を正しく守ることを考えますが、イエスはそういうものを逆転させる方だったのです。

2016年9月11日日曜日

2016年8月28日

2016年8月28日 主日礼拝説教要旨
  「あなたは幸いなのだ」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書5章1〜12節)

 マタイ福音書はマルコ福音書を底本にして編集されたと考えられていますが、その大きな違いの一つは、イエス・キリストの説教に重きが置かれていることです。マタイはイエスの言葉を伝えたいという想いがあって編集されたと考えて良いでしょう。
 今朝の箇所は、そのイエスの説教の冒頭にあたり「マタイが一番伝えたかったこと」なのだと考えるのです。イエスの下に大勢の群衆が集まって来ていますが、「色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊にに取り憑かれた者、あらゆる病いの人たち」でした。病を持つことが罪の結果であると考えられていた当時の社会では、これらの人々は魂の孤独の中にいた人々に違いありません。その人たちに、「あなたは幸いだ」と語られたのです。貧しい人、悩み苦しんでいる人、柔和な人とは、不当な苦しみに耐えなければならない人のことであったり、明日の食物にも困っている飢え渇いている人等など、イエスの前には日々現実の中で、その苦しみに喘いでいる人たちだったのです。
 その人たちに向かって「幸いだ」というのは無意味でまやかしであると批判も出来るでしょう。しかし、イエスの言葉として話されたのです。もし現実離れしたまやかしであるなら、マタイが後世の人々に伝えたでしょうか。2000年の時を経て私たちは聞くことが出来るでしょうか。この言葉が苦しみ、悲しみの中にいる人に力を、励ましを、希望を与えたからこそ私たちもこの言葉を受け継いでいるのです。
 イエスが語ったからといって彼らの現実がすぐに代わるわけではありません。何が彼らに力を与え、何が変わったのでしょうか。それは「イエスが共にいる」ということです。すなわち、いかなる時にも「私があなたと共にいる」のだと宣言されたのです。
 あなたは一人で戦うのではない、一人で耐えるのではない、わたしが共にいて、共に苦しみを担おうという決意で、この山上の説教を語り出したのです。悲しみや苦難の状況の中にあってもイエスは「大いに喜びなさい」と語られます。私たちはイエスによって愛されているからです。

2016年9月10日土曜日

2016年8月21日

2016年8月21日 主日礼拝説教要旨
  「全ては神から出て、神に向かう」宇野稔牧師
  (ローマの信徒への手紙11章33〜36節)

 人間の不従順さえ、信仰に変えてしまう神の救いの業(32節)にパウロは感嘆し、歌をうたうように書き出したのが、この箇所です。
 その内容は、「神の富、知恵、知識の何と深いことか」(33節)で始まります。パウロはこの3つのものに感動しています。神の富、それはどんなものでしょうか。私たちが求める、豊かさはそれが金銭的であれ、心の豊かさであれ「豊か」であることを求めています。
 しかし、神の豊かさは「貧しくなる」ことでした。神は神であることを捨てて、人間となってくださったのです。貧しくなって一緒に生きてくださったのです。その豊かさをもたらしたものが「神の知恵」でした。私たちの知恵は最終的に自分の欲得にあり、他者との間に悲しい虚しいものしか残せないようなものなのです。パウロは人間の知恵に対して、神の知恵に感動しているのです。他の存在のために自分を捨てることを決断し、愛を貫いて死に向かうのです。それが豊かな関係を生み出していくのです。イスラエルから始まって、世界を変えてゆき、今も福音は世界に広がりつつあるのです。
 神の知恵の前に神の知識があり、即ち、神の認識があったのです。神における人間の姿は、神を裏切り続け、離反し続ける存在でした。しかし、神はそのような人間の現実を知りつつ、人間を愛すべき存在として認識してくださったのです。パウロはその点にも感動しています。
 私たちは教会に集まり自らの事としてこのパウロの姿勢に注目しなければなりません。私たちは、救いに値する立派な点や素晴らしい点があったわけではありません。ただ神がこの私たちのために貧しくなってくださり、その知恵をもって愛を貫いてくださり、神の知識を持って「愛すべきもの」と認識してくださり、私たちを救ってくださったのです。
 私たちもパウロと共に神を讃美しましょう。私たちは神によって生まれ、導かれ、神を目指して歩んでいます。36節のことばは、パウロがそのことを語っているのです

2016年8月28日日曜日

2016年8月14日

2016年8月14日 主日礼拝説教要旨
  関わりを生きる~平和の実現を祈り~
  小﨑眞牧師(同志社女子大)
  (ルカによる福音書10章25節~37節)

  今年の「平和宣言」で発せられた「情熱(広島)」、そして、「英知(長崎)」に関心を払いつつ、聖書との対話を通し、平和の実現を共に模索してみたい。「情熱と共に」との言語世界(Com-Passion)は「憐み」や「共感」の意として聖書の中では理解されてきた。一方、「英知」は「主を畏れることは知恵(英知)の初め」(箴言1.7)と語られるように、人間と神の関係性を解き明かす洞察に満ちた言葉として用いられてきた。
「共感」は愛が発動する上で重要な要素であろう。しかし、「共感」には相手を支配する暴力性が内在することもある(熊谷晋一朗「痛みの哲学」)。容易に回収できない痛みをわかった風に「自己の物語」へ組み込もうとする姿勢は、相手を支配し、一層、相手に苦痛を与える。ゆえに、共感し得ないことへの痛切な実感こそが、真の共感関係を創出し得るのかもしれない。サマリア人の譬話は真の共感関係を問う。サマリア人は「憐れに(com-passion:共感‐内臓が引き裂かれるような痛みと共に)」思い、旅人を助けた。その後、宿屋(「すべてを受ける」との意)へ出向き、一晩の介抱後、宿屋の主人に2デナリオン(24泊分の宿賃)を託し、その場を離れた。旅人の痛みを回収し得ない現実をサマリア人は自覚していたのかもしれない。一方、宿屋の主人は、痛みの共感より旅人の現実を「すべて受けとめ」、いわゆる「社会的サポート(社会復帰への援助、身体への介助)」(熊谷晋一朗)を実践した。傷ついた旅人を含め、様々な客人たちをもてなす宿屋の主人の姿を容易に想像できる。特定の旅人との「助けた、助けられた」という固定化した共感関係性は打破されたに違いない。宿屋の主人は種々の営業経験を通し、客人たちの多様な要求に忍耐強く対応し得る英知を育んでいたと言えよう。
確かに、他者との共感関係(SNSの「いいね」など)に身を置くことは安心、安全との思いを育むのかもしれません。しかし、自分自身の既存の発想を転換する視座は創出し得ない。安易な共感による熱狂性や集団性(メディアに扇動された「愛」のキャンペーン活動など)と距離を保ち、真の英知(多様性・複雑性への耐性/忍耐力)に根差して他者の到来を迎える時、その只中に新しき希望を創出すべく隣人が立ち現われてくる。「共感し得ないことへの痛切な実感」を懐き、忍耐強く問い続ける時、新しき関わりが創出すると言える(「問いは人を結びつける」エリ・ヴィーゼル)。真の共感と真の英知を求めて共に平和の実現を祈り合う者でありたい。

2016年8月23日火曜日

2016年8月7日


2016年8月7日 主日礼拝説教要旨
  「あなたがたは神の宮である」宇野稔牧師
  (コリントの信徒への手紙Ⅰ3章1〜9節)


 戦争が世界のどこかで絶え間なく続いていることを考える時、「何かの力によって戦うよう仕向けられているではないか」と思っています。その誘惑と力は私たちの中にも存在するのです。

 今日の箇所で描かれているのはコリントの教会の中での「派閥争い」です。パウロにつく、アポロにつく、この二大勢力の対立も激しかったのでしょう。そこでパウロは「アポロとは何者か。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは神である」と云うのです。

神がこの教会を育てておられるのに、争っているのは本当に情けないことだ。パウロはキリスト者とは聖霊によって生きる「霊の人」であるべきなのに、他の人と何ら変わらない「肉の人」ではないかと叱るのです。

 私たちは誰のために生きているのでしょうか。パウロは人々が生きるのは「神のため」であると云うのですが、そうだと窮屈な気がしてしまいます。自分は自分らしく生きてこそ、価値が有ると考えたいですし、またそのために生まれて来たと思ってしまいます。

 しかし人間は「自分のため」に生きているのでしょうか。時間と富を思う存分使って自分の楽しみだけを求めて生きたその結果、幸福になることはできるのでしょうか。私たちの周りで幸福そうに生きている人が増えたでしょうか。昨今、多くの高齢者、若者、女性、子どもが「孤独の中で苦しんでいる」という事件が多発しています。孤独は大人だけではなく確実に広がっているのです。犯罪を生み出す悲しみがなんと多いことでしょうか。

 けれども私たちが神のために力を合わせる時、あなたたちの人生は、実り豊かな畑であると云われます。イエスは「平和を実現する者は幸いである」と云います。世の中の諸悪の大きさを考える時、「自分一人がやっても」という思いになりますが、最悪の時代の中でも神の言葉に心を傾ける人がいる、それが平和への希望なのです。

 どんな時代にあっても平和を実現しようと祈り志している人がいます。それが平和を生み出す原動力なのです。私たちは神の宮です。「成長させて下さるのは神です」、信じて歩みましょう。

2016年8月14日日曜日

2016年7月31日

2016年7月31日 主日礼拝説教要旨
  「神の選んだ器」宇野稔牧師
  (使徒言行録9章26〜31節)

 使徒言行録を読んでいると、ふと思うことがあります。「もしパウロという宣教者がいなかったら、キリスト教はせいぜい地中海沿岸地方に散在していたユダヤ教の一派にとどまっていた」、そんな仮説が立てられるくらに、パウロがキリスト教全体に及ぼした影響は大きいものがあります。
 パウロはローマの属州キリキアのタルソスで生まれ、ローマの文化も吸収し、学問を研き、精神的には一点の曇りもなユダヤ人として育ったのです。会堂においても律法教育を受けて育ち、アラム、ヘブライ、ギリシア語に精通していました。ローマの市民権を得ており裕福な家庭だったのです。
 パウロはキリスト教迫害運動に加わりダマスコを目指したのですが、到着するという所で彼は強烈な体験をします。それは主イエス・キリストとの出会いです。それによって回心し、キリスト教の宣教者になるのです。
 それで今日の箇所につながります。3年間ダマスコで宗教活動をしたのですが、まだ信頼されてなかったようで、そのパウロをエルサレム教会とつないだのがバルナバでした。パウロがまことのキリスト者であり、情熱の伝道者であることを知り、ペトロに紹介しました。主の兄弟ヤコブともつながります。バルナバはパウロを招き教会形成を共にします。そしてアンティオケア教会から世界宣教が始まっていくのです。
 パウロは主の選ばれた器でした。彼の働きは大きいものでした。しかし、器が働くためにどんな人々が必要だったでしょうか。周りで支える人、共に働く人がいなければパウロも存在しなかったのです。私たちも主に選ばれた器です。「自分はそんな器ではありません」と云うかもしれない、でも器が立派だから選ばれたのではありません。大切なのは「神が選んだ」ということの方です。神が選び用いて下さるのです。私たちが逃げ出しても追いかけて下さる。迷ったら探しだして下さる。傲慢になったら諌めて下さる。危険な時には守ってくださる・・・・それが選ばれたということです。
 これこそ私たちの喜びであり、希望なのです。その確信をもって生きて行きましょう。



2016年8月8日月曜日

2016年7月24日

2016年7月24日 主日礼拝説教要旨
  「神に喜ばれる関係」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章32〜37節)

 そういう、姿の教会は多くの人に好感をもって受け入れられたとあります。「イエスこそ、キリストだ」と語り、その徴として「分かち合って」いたのです。そして、その姿こそ何よりの証しだったに違いありません。私たちの教会の姿は、如何なものでしょうか。今一度、この箇所と2章44〜47の初代教会が行われていた理想的な信者の生活を報告するまとめのことばを読み、私たちが目指すべき姿と為して行きましょう。 貧しい人は明日を生きることも苦境の中にいました。そういう時代と社会の中にあってイエス・キリストを信じる群れは「全てのものを共有し貧しい者は一人もいなかった」というのです。人が「持てるものを出し合い、必要なものを受け取る」、それこそ人間の理想の社会です。それが初代教会の姿だったのです。強制的でなく洗脳でもなく、イエス・キリストを見上げる中で自然に行われていたというのです。 もう一つの特徴は、「全てを共有し、貧しい者は一人もいなかった」という点です。昔がよい社会であったのではありません。当時のイスラエルは、現代と似通った経済状況、社会状況でありました。ローマ帝国の出現による経済構造の急激な変化の中で貧富の差が拡大していたのです。 その初代教会の姿をルカが伝えているのが、この箇所です。その特徴的なものの一つは「心も思いも一つにしていた」という事です。教会は様々な方が集まります。各々に考えも違うでしょう。でもその中で「心は一つ」というのです。皆が同じことを云うのではなく、「一つ」とは目指しているところが同じであるということでしょう。皆がイエス・キリストを見上げて歩んでいるのです。 ペトロが「この人にこそ救いがある」とイエス・キリストを語り、そこに人々が集ってきたのですから、世間の人々は注目したに違いありません。「イエス教の連中は、救われる、救われるというけれど、その救いとはどのようなものであるか」という目で教会を見たに違いありません。

2016年8月5日金曜日

2016年7月17日

2016年7月17日 主日礼拝説教要旨
  「思い切って、大胆に」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章23〜31節)

 ペトロとヨハネが釈放されて教会に帰ってきました。心配していた仲間たちにこれまでの顛末を全て話したのです。ということは、「今後イエスの名によって何も語るな」と脅されたことを語ったのです。教会は小さく弱い群れでした。その教会に権力者が脅しをかけているのです。
 私たちなら「迫害が自分たちを襲うことがないように」と祈るのではありませんか。ところが、初代教会は「思い切って大胆に御言葉を語ることが出来ますように」と祈ったのです(29節)。それによってもっと大きな艱難が来るかもしれません。圧倒的力による迫害が起こるでしょう。それなのに今まで以上に「大胆に御言葉を語る」ことを求めて祈ったのです。
 その時、一同の集まっていた場所が揺れ動いたと記されています(31節)。
迫害や困難で動揺する時、私たちは何をすべきなのでしょうか。キリストは神に向かうのです。神を疑うような出来事は再三起こりまます。イエスキリストによって愛することを選択しても、この世界がそれを評価してくれるわけではありません。むしろ、それを嘲笑うような行動や言葉が返ってきます。
 愛に生きるなんて何の意味もないように思えることも起こってきます。でも私たちはどこに立つのでしょうか・・・・・。私たちは思い切って大胆にイエス・キリストの名に立つのです。キリストの十字架、十字架に向いていく愛こそが自分の生きるべきところであるという確信に立つのです。
 この世の力を目の当たりにしながら、見えない神の力に立つという決断をするというのは大変なことです。しかし、その決断力は祈りによって与えられるのです。私たちは「思い切って大胆に御言葉を語ること」「思い切って大胆に御言葉によって生きること」を求めて祈ろうではありませんか。
 神は祈りに応えて下さるのです。「求め、探し、叩き続けよ」というのがイエスが教えて下さった祈りの姿勢です。「思い切って大胆に」語り生きられるように祈っていきましょう。

2016年7月25日月曜日

2016年7月10日

2016年7月10日 主日礼拝説教要旨
  「見よ、生きている」宇野稔牧師
  (使徒言行録20章7〜12節)
 パウロは二つの願いを抱えていました。ローマとエルサレムに行くことです。この願いは敵地に単身で乗り込むことを意味し、死をも覚悟しなければならなかった程でした。そして出発のためにトロアスに集まるのですが、日曜日の夜彼らとの最後の礼拝が始まります。もう二度と会うことはないだろうと語るパウロの表情から、その決意の深さや厳しさを感じていたのです。
 夕方から始まった礼拝は真夜中になっても終わらず、それほど思いのこもった礼拝をしていたということですが、そこにエウディコという青年がいて居眠りをしていて3階の窓に腰掛けていた所からバランスを崩して落ちてしまったのです。皆は驚いてかけ寄り、生死を確かめると打ちどころが悪かったのか死んでいたのです。
 ところが、そこにパウロがやって来ます。そしてこう云うのです。「騒ぐな、まだ生きている」。果たしてパウロの言葉通り彼は息を吹き返したのでしょうか、本当に死んで蘇ったのでしょうか。事実は何であったかわかりません。ここではパウロだけが「話した」とあるだけです。しかしながら、ここで大切なのはパウロの言葉「まだ生きている」です。人々が「もう死んでしまった」と思った点は、パウロから見たら「まだ生きている」というのです。
 この箇所は「礼拝」について述べています。そして、エウディコという青年は礼拝で私たちの中に何かが起こるということを表しているのです。礼拝とは、死んでいる者が神から「あなたは生きている」との宣言を受ける空間なのです。K.バルトは「祈り手を合わせることは、この世界の無秩序に対する抵抗の始まりである」と云いました。矛盾の中で、矛盾が引き起こす悲惨な悲しみの中で「すでに死んでいる」ような人生を過ごしているかもしれません。しかし、その時、神に向かって手を合わせ祈るそのことが、この世界の矛盾に対する反抗の始まりなのです。この宣言は私たちの中に生きる力と未来への希望を与え、現実の中で「起き上がる」力を与えられるのです。礼拝はいのちの泉です。

2016年7月17日日曜日

2016年7月3日

2016年7月3日 主日礼拝説教要旨
  「イエスの名によって」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章5〜12節)
 この箇所はペトロの説教の一部です。ペトロは「あの方は十字架にについて殺されたけれど、復活したイエスの名による」と証しをしたのでした。その内容は、当時の権力者を痛く刺激するものであったので、ただちに彼らは逮捕されたのです。
 その翌日イエスを十字架につけた同じメンバーによる詰問がなされます。つまり、自分の命惜しさにイエスを見捨てて逃げた者であるということを承知していたので、「何の権威によって行ったのか」という脅しをかけるのです。尻尾を巻いて退散するだろうと計算していたに違いありません。
 ところが、ペトロは逃げるどころかその証人喚問の場でイエスこそは救い主であると説教したのです。並み居る神学者、律法学者、祭司、議員を前にして一介の漁師に過ぎない彼が、「この人による以外に救いはない」と語り、救い主はイエス・キリストのみである、と云ったのです。つまり、この世界において本当の権威を持っているものはイエス以外にないということです。
 「救い」とは何でしょうか。悲しみや痛みからの一時的な逃避でしょうか。もちろん人間はある時には慰められる事を必要とします。しかし、慰められることだけが救いの最終の目標でしょうか。そうではありません。イエス・キリストの救いとは、人を変えることです。その一番の証がペトロです。ユダヤ人を恐れて逃げ出した彼が、今は同じユダヤ人を相手に堂々とイエス・キリストを証ししています。恐れなく自由に語り行動しているのです。
 イエスは私たちの主です。しかし、権力をもって支配する主ではありません。救いの主なのです。そして愛の主なのです。主イエスの愛を全てに優る権威として受け止める時、私たちは主イエスによって変えられ、どんな不安にも虚無にも優る力を得、恐れなく堂々と自由に生きることが出来るのです。それこそが、主イエス・キリストが私たちにもたらされた救いなのです。
 キリストを直視し聴き従うことです。

2016年7月11日月曜日

2016年6月26日

2016年6月26日 主日礼拝説教要旨
  「自分をかけて求める」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章46〜52節)

 イエスはエリコを通られます。ここは交通の要所でローマ、ギリシャの影響を多大に受けています。エリコはヘロデのお膝元でもありました。イエスがその町で視力に障害のある人で物乞いがいたのですが、その人は「ダビデの子、イエスよ。私を憐れんで下さい」と叫び続けます。しかし人々は彼を叱りつけます。何故でしょうか。
 ここで目の見えない人にイエスを紹介するのに「ナザレのイエス」という言い方をしていますが、マルコに4回出てきます。全ての場合イエスに対する無理解や悪意のようなものの存在を感じる紹介の仕方です。
 ヘロデの街エリコで「ナザレのイエス」だと紹介されたにも関わらず、彼は「ダビデの子、イエスよ」と言ったのです。この違いに注目しましょう。こう叫んだということは「私たちの救い主イエス」と大声を上げたのです。ここはヘロデの本拠地です。ユダヤ人にとっては、救い主はローマの支配からの解放してくれる指導者のことです。民がヘロデ以外の「真の」王を求めているという意味の言葉だったのです。
 これが信仰なのだとマルコは伝えたいのです。すでにキリストは十字架につく決心をしています。いわば、イエスも生命をかけて下さっているのです。しかしそれに対して私たちがかけるものが小さければ、イエスの愛の大きさが判らないのです。この一人のハンディを持っている人が自分をかけてイエス・キリストに救いを求めた時、イエスの愛の大きさを知ることが出来たということではないでしょうか。
 エリコという一番のヘロデの足下で、なお自分をかけて救いを求めたこの人の信仰に学びましょう。彼には神からの憐れみを受ける以外に生きる道がなかったのです。そこに叫び求めていく姿勢なのです。すると、その時イエスは立ち止まって「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とあります。私たちもイエスに立ち止まって下さるよう求めて行かねばならないのです。はっとさせるものは何でしょうか。自分をかけて求める叫びでもあります。

2016年7月5日火曜日

2016年6月19日

2016年6月19日 主日礼拝説教要旨
  「一番になって何をする」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章32〜45節)

 今朝の聖書に出てくるイエスは実に厳しい顔をしています。弟子たちは「驚き、従う者たちは恐れた」と記されています。イエスはここで3度目の「十字架の予告」をします。十字架への苦難の道が極めて具体的に迫っているということです。イエスの決意は受難の道であり辛い道行です。
 さて、その足下で弟子たちは何を感じていたのでしょうか。ヤコブとヨハネが内緒でイエスのもとに来て「あなたが王座に就かれる時は、左大臣右大臣にしてください」と頼んだというのです。師であるイエスが十字架に向かうために決死の歩みをしている足下で、弟子たち皆んが「誰が偉いのか」といい争いをしているのです。
 この弟子たちの姿をどう見、どう考えるでしょうか。イエスの荘厳な決意を前にして弟子たちはなんという愚かで、滑稽なことかと考えます。しかし、よく考えると私たちはこの弟子たちの姿を笑うことは出来ません。なぜなら、弟子たちは私たちの日常の生き様そのものだからです。イエスと一緒に生活しながら、イエスのことを全く理解出来ず、自分の事だけしか考えていないのです。
 そのような私たちに向かって「偉くなりたいなら、仕える人になりなさい」と言われるのです。同じ話が9章33節でも語られております。この繰り返しの中で、愚かで滑稽な弟子たちに対するイエスの愛を見るのです。このような弟子たちを最後の最後まで見捨てず、諦めず、希望を持ち続けるイエスの深い愛を覚えます。
 これがイエスの闘いです。愛を行う闘いです。目的は勝利ではなく、神の御心が行われているかどうかです。愛の目的は相手を立てること、「仕える」ことです。十字架の道は生命を失うという完全な敗北ですが、イエスはこの道を歩んでいます。この世的に考えて勝利かどうかではなく、神の御心が行われてるかどうかなのです。
 その歩みこそが本当の勝利だったのです。

2016年6月27日月曜日

2016年6月12日

2016年6月12日 子どもの日合同礼拝 説教要旨
  「神さまは愛」宇野稔牧師
  (Ⅰヨハネの手紙4章16〜21節)

 16節に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です」という言葉があります。これこそキリスト者の証しです。私たちは、神に守られていることを当たり前のことのように思ってしまっていないでしょうか。神の愛を心に留めて生きているでしょうか。どんな時にも自分は神に愛されていると信じることが出来ていますか。
  現実の私たちは、うまく行かなくなると不安になり、人生思い通りでないことに激しく動揺してしまいます。そして自分の無力を嘆いたり、他人の冷たさを恨んだり、社会の矛盾を数えて悲嘆にくれたりしてしまうのです。
 その時、聖書は段落を変えて宣言します。「神は愛です」。私たちが生きて行くに当って、拠って立つべき事実がここにあるのです。時代や自分を巡る環境がどのようなものであれ、「神は愛です」という事柄は揺るがない事実だという宣言なのです。様々な状況に心折れることなく「神に愛されているという確信にとどまる」ことが奨められているのです。
  18節で「愛には恐れがない」と語られています。私たちが神の愛を生きるならば、この世界のいかなるもの、いかなる人も恐れることはないというのです。その愛は神によって19節に示されている通りなのです。神の愛を生きる者は、イエスがモデルです。「他者を愛そう」とするのです。私たちは「神を愛している」とは云うけれど、兄弟が困っていても手も出さない人がいたとしたら、その人は本当の神の愛と出会っていないのです。愛される体験のない者が愛することが出来るはずはありません。さらに、目に見える兄弟を愛さない人が、目に見えない神を愛することな出来ません。
  互いに愛し合うこと、それが神が旧約の初めから語って来られたことであり、イエス・キリストが生命を縣けて残された新しい掟なのです。  小さな子どもたちが成長して行くのも神の愛のしるしです。私たちはその神の愛の中に置かれています。子どもと共に神の愛に感謝し、その愛の中を生きる者として、互いに愛をもって歩みましょう。

2016年6月21日火曜日

2016年6月5日

2016年6月5日 主日礼拝 説教要旨
  「一つ足りないものがある」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章17〜22節)

 富める青年に向かってイエスが「一つ欠けている」と云われたことを考えましょう。単純に考えれば「イエスに従うこと」でしょう。しかし、イエスは従うことや、全財産を貧しい人に施すということではないと考えておられます。イエスが求めておられる一つのものとは、この人がもったら永遠の生命に至り、神の国へと至るその根源が「一つ足りない」ものです。それを解く鍵が21節にあります。
 イエスはこの人に目を留め、慈しまれたとあります。この言葉は「アガパオー」ですが、これはアガペーの動詞です。イエスはこの人を見て深い愛を覚えられたのです。愛のまなざしの中で語られたのです。ですから、この言葉は相手に不足を見出すための言葉でありません。むしろ、イエスが人を見つめ「私に従って来なさい」という時には、その人を招いておられるのです。「あなたに足りないものは一つだけだ」。イエスはこう語りながら、この人を招いておられるのです。
 考えてみたら、この人も欠けの多い人間だったのです。足りない面を多く持っていたでしょう。しかし、彼は一生懸命に歩んできたのです。イエスはそのような人間を愛されたのです。足りないことが多くても、貧しい器であっても必死になって神の業を行おうとする人間を神は愛するのです。そのような人間を救いへと招かれるのです。
 実に彼に欠けている「一つのもの」、それは神への信頼です。人間の破れを社会の破れを自ら貧しくなって十字架についてまで懸命に支えようとしている神への信頼です。彼の今日までの歩みの中に、そのような神の愛があったという信仰が彼に欠けていた一つではないでしょうか。逆に云えば、私たちに求められているものは、才覚や能力や資質ではなくこの一つの信仰だけだということではないでしょうか。

 今年の平安教会では、宣教方針(総会にて承認された事項)の③で「地域に、家庭(家族)に伝道する教会」を掲げ、私たちの足りない点を補うことに集中するよう実際に伝道文書をもって励むのです。

2016年6月15日水曜日

2016年5月29日

2016年5月29日 主日礼拝 説教要旨
  「神の国を受け入れる信仰」宇野稔牧師
  マルコによる福音書10章13〜16節)

 イエスのもとに子どもを連れた母親がやって来ます。イエスの弟子たちはその親子を見て追い返そうとします。イエスが休むことの妨害になると思ったのです。それも子どもでなく母親を叱っています。子どものことで叱られることは親にとっては辛いことでした。
 ところがその様子を見ていたイエスは、その弟子を叱ったのです。しかも憤ったとかかれていますから激しい感情を表したのです。つまり、他では見たことがないくらい激しく弟子たちを叱りつけたのです。子どもがイエスのところに来る、そしてイエスの祝福を受ける。それは決して妨げてはならない行為なのです。
 イエスは「神の国はこのような者たちのものである。はっきり云っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」。そして子どもたちを抱き上げて祝福されたのです。イエスは子どもの何をそんなに評価されたのでしょうか。それは「神の国を受け入れる」と云う言葉です。神の国とは神の支配と言い換えることができます。子どものように神の支配を信じる者こそ、神の国にふさわしい者たど言われるのです。
 子どもは素晴らしい能力の持ち主です。例えば「仲直り」です。本気で大げんかしてもその直後に仲直りして、すぐに一緒に遊ぶという能力です。根底にあるものは他者に対する信頼です。子どもは言葉でうまく表現出来なくても、神が自分たちを愛しているという事を感じていますし、信じているのです。
 信仰の先達は、私たちに神の国を受け入れることの大切なことを告げています。それは自分を委ねて行くことです。無力なるが故に、出来ることがあるのです。そして無力な私が神と出会うのです。神の国を受け入れていく信仰、それを継承していきたいと願うのです。ここでイエスが特に強調されておられる点は、幼子のように素直になれということよりも、乳飲み子という言葉からも飲み込む、受け入れるという特色があると云われ、その点をイエスがここで引き合いに出された意味なのです。

2016年6月7日火曜日

2016年5月22日

2016年5月22日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「やめさせてはならない」宇野稔牧師
  マルコによる福音書9章38〜41節)

 弟子たちは自分たちの知らない人が、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見て「私たちの仲間でないのだからやめろ」と云いますが、失敗したのでイエスに訴えるのです。ところがイエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方である」と云います。これを単純に考えると心の狭い弟子に対して、イエスは心の広い方なのだという物語のように読めます。
 ところがマタイ福音書12章30節には「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し...散らしている」。マタイでは味方以外は敵だと云っているのです。マタイの成立の成立的背景にユダヤ教からの迫害という現実があって、12章のところもファリサイ派との論争の中でイエスが云った言葉なのです。そこで問われているのは、イエスと共に歩むかファリサイ派に従うかという決断があり、迫害の中でもイエスと共に歩みなさいとの決断を促す言葉なのです。
 それに対して今日のマルコの文脈は、イエスに従う決意をした弟子たちに対して語られています。彼らがイエスに従うという決断はすでになされているわけで、その弟子に対して私たちに敵対しないなら味方ではないかと語っているのです。
 だからイエスが私たちという主語を使っていることに注目しましょう。即ち、自分の仲間として表現されています。そしてその行為を「やめさせてはならない」と語られるのです。男がイエスの名を使っているということは、イエスの運動に共感したり共鳴していることの証しでしょう。必ずしも正しい弟子でないかもしれないが、「敵でないなら味方ではないか」です。41節に「はっきり云っておく...水一杯をさし出したこと、その事を忘れない」というのです。イエスは十字架に向かっています。イエスはいのちを捨てる旅をしているにもかかわらず、水一杯を差し出したこと、このことを覚えそのことをもって報いて下さるというのです。
 キリスト者として適格者と云える者ではないにちがいありません。しかし器不足の者が差し出した水一杯をイエスは「忘れない」と語られるのです。

2016年5月31日火曜日

2016年5月15日

2016年5月15日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「神の力・霊の力・炎の力」宇野稔牧師
  (使徒言行録2章1〜8節)

 聖霊降臨日です。イエスが弟子たちから離れて天に昇ってから「助け主を送る」との約束を信じて待っていました。五旬祭の日についに「神の定めた時」が満ちて助け主が与えられたのです。その時の様子が具体的に記されているのが2と3節です。ここに記されている超自然現象は、神がそこに現れたということを表現するための古代人ルカの文学表現です。
 聖霊とは、ルーアッハというヘブル語ですが、これには「風」「息」という訳があります。イスラエルでは2種類の風が吹きます。一つは東風。激しい東風は砂漠や荒野から吹きつける風でした。熱風の中に砂を伴い、作物を駄目にし、生活を破壊し、ひどい時には町の機能さえ奪っていく破壊的力をもつ風のことです。「草は枯れ花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」(イザヤ40:7)。これはまさに東風のことです。
 もう一つは西風です。地中海から吹き込む風です。冬の渇いた地に雨を降らせるのは西風です。夏の西風は灼熱の太陽にさらされている人間に穏やかで涼しい地中海の空気をもたらし、大地と人間を生き返らせる力、それが西風です。風は神の力です。人も国も滅ぼすことの出来る神の力なのです。しかし、その神の力は渇ききった人間の魂を潤し、慰め、生き返らせる力でもあるのです。国を滅ぼすことさえ出来る神の力、それが人を生かすために用いられるというのが「聖霊の働き」なのです。
 私たちの生活で途方にくれたり、不安や絶望したり、劣等感にさいなまれたり、そういう生き様の中で泥だらけになっている時に聖霊は「弱い私たちを助け、聖霊自ら言葉に表せない呻きをもって、私たちのために執りなしてくださるのです」(ロマ8:26)。
 私たちは聖霊を受けています。だからイエスを信じることが出来るのです。この社会の中で神の力、霊の力、炎のような愛によって生きる者となりましょう。

2016年5月24日火曜日

2016年5月8日


2016年5月8日 主日礼拝 説教要旨

「誰が一番偉いのか」宇野稔牧師

(マルコによる福音書9章33〜37節)

 イエスは十字架を思い一歩一歩祈る思いで一心にエルサレムへ向かう時に、弟子たちは「誰が一番偉いか」という話しをし、自分の出世を虎視眈々と考えているのです。弟子たちは何と情けないのでしょうか。その弟子に対してイエスは、どっかりと座わり込んで、弟子たちをそこに呼び寄せたのです。つまり弟子たちも座らせたという事です。

 このスタイルは、弟子たちが寝食を共にしてきたことを思い起こすという効果があったのです。「今あなた方が関心を払うべきことは、誰が偉いかではなく、力を合わせるべき時なのだ」と云いたかったのではないでしょうか。

 そしてイエスは「一番になりたいなら、すべての人に仕えなさい」と語られたのです。さらに「仕える」という意味を知らせるために一つの行動を示されます。イエスは立ち上がり、周りにいた子どもを連れて来て、真ん中に子どもを立たせ、抱き上げられたのです。私たちはこの光景を違和感なく受け止めますが、当時の社会状勢を考えると、非常に珍しかったのです。子どもや女性は当時半人前の人間としてしか扱われていなかったのですから。しかしイエスが表したのは、子どもと女性を一人の人格者として受け入れられた、即ち、この世界の最も小さいもの、弱いものを受け入れられたのです。

 この意味するところは、私たちが生きる姿勢を全く変えること、自分の在り方を変えることを示されているのです。私たちもまた「偉くなりたい」という思いで生きてきていたのでしょうが、その時私たちは大切なもの、見失ってはならない大事なものを失くしてしまっているのです。私は30年間の幼児教育の現場で、卒園児に送る言葉として「偉い人になるより、賢い人になれ」と云い続けました。

 イエスは私たちに「さあ、座りましょう。一緒に座ってもう一度、中心にイエスがいて下さるということに心を留め、私たちの生き方を変えよ」と呼びかけておられるのです。耳を澄まして聴きましょう。

2016年5月21日土曜日

2016年5月1日

2016年5月1日 主日礼拝 説教要旨
  「理解できない言葉・愛」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書9章30〜32節)

 イエスの宣教の中心地はガリラヤでしたから、ガリラヤには親しい友が沢山いたに違いありません。しかし、イエスはガリラヤを急いで通過して、しかも人に気づかれないように、隠れるようにして駆け抜けたというのです。何故でしょうか。イエスはエルサレムに行き十字架につく決意をしていたのです。そこから考えると、それは十字架への道を最短で取ったということではないかと考えます。
 そこには、イエスの強い思い、強い意志、イエスの深い気持ちが表れていたと見るのが良いと考えます。イエスは祈りつつ、ただ一直線に十字架へと向かわれました。その祈りの中でイエスは2度目の十字架と復活を告げます。しかし、弟子たちは「この言葉がわからなかった」のです。言葉自身は難しいものではありません。誰にでもわかる言葉だと思うのです。何故弟子たちは理解できなかったのでしょうか。ここに出てくる「ことば」はギリシャ語でレーマといいます。マルコ福音書では2回使われていて、もう一つはペトロの裏切りの場面です。「あなたは3度私を知らないというだろう」というイエスの言葉を思い出し、、、のところです。つまり、ことばとしては解っていても当事者がそのことを信じることが出来ない、そういう意味をもつ言葉として用いられているのです。
 弟子たちは自分の本当の事と受け止めて、その言葉に向かって生きることが出来ないので、心を背けているのです。だから「恐ろしくて聞くことが出来なかった」のです。それは、弟子たちが自分の本当の罪深さと弱さとを理解していないからです。イエスの十字架によってでしか救われないという自分の本当の惨めさに気づいていないからなのです。
 イエスが十字架につけられた時、弟子たちは一目散にイエスを捨てて逃げ去りました。自分の醜さを目の当たりにして、どれほど悲しい存在なのかを知ったのです。そして、裏切った弟子たちを十字架上でもなお愛し続けられたイエスを目の当たりにした時、何故イエスが殺されなければならないかを初めて理解したのです。イエスの愛は理解出来ない程の深い大きい愛なのです。

2016年5月11日水曜日

2016年4月24日

2016年4月24日 主日礼拝 説教要旨
  「祈りの力」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書9章14〜29節)

 イエスは山から降りられると一人の人が近寄って来てイエスに話します。息子をイエスのもとに連れてくると発作を起こしながら倒れ込んでしまうというのです。目の前で苦しんでいる子どもを前にして父親は気が気でなかったのでしょうが、イエスはその時息子を癒そうとせずに、父親と話し始めたのです。しばらく会話が交わされたのちようやくイエスは癒しを行い、息子の発作は収まります。それまでは弟子たちが癒すことができず恥じたのは何故か。それに対してイエスは「祈りによらなければ決して悪霊を追い出すことは出来ない」と言われたのです。
 さて、この物語の中で誰が祈ったのでしょうか。イエスでしょうか、弟子たちでしょうか。言葉としては出てきません。イエスが云う祈りとは何でしょうか。それでこの点を考える時、イエスと父親の会話が気になります。苦しんでいる子どもを目の前にしながら何故イエスは問答を繰り返したのでしょうか。つまり、今回の癒しの対象は息子の病いでなく、むしろ息子の病いを癒すことを通して父親を癒されたのです。この父親こそ私たちの象徴なのです。
 イエスの癒しの対象は「不信仰な時代」そのものです。父親はイエスとの会話の中で「信じます。信仰のない私を助けてください」でした。祈りとは、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」という父親の叫びなのです。自分の前に立ちはだかる現実を直視し、自分にはとても力に余ると思う時、人間は神に叫ぶのです。「助けて下さい」これは他人任せの考えではなく、全力を尽くそうとも困難は自分の力以上であるという事への魂からの真摯な嘆きなのです。その祈りの中で人は神の存在と力とを経験するのです。「信仰のない私を助けて下さい」という叫びが祈りです。その叫びに応えて、神が私たちに信じることを許して下さるのです。だから、信仰こそ神の恵みであり、神の祝福であり、神の奇跡であり、神の癒しなのです。
 この恵みによって、不信仰な時代を打ち破っていく神の可能性が私たちの前に広がるのです。

2016年5月3日火曜日

2016年4月17日

2016年4月17日 主日礼拝 説教要旨
  「大漁を保証するみ言葉」宇野稔牧師
  (ヨハネによる福音書21章1〜8節)

 十字架にて殺されてしまったイエス・キリストの最後は、弟子たちには失望とか落胆という言葉では表せない程の大きな衝撃でした。いわば虚脱状態のままちりぢりになり、エルサレムからガリラヤ湖に帰って来ました。
 そして、ペトロが「私は漁に行くのだ」というと他の連中も一緒に出かけ網を打ちますが、全然収穫はなかったのです。
 焦りと疲れで茫然としている弟子たちにイエスは舟の右の方へ網を下ろしてみなさい(6節)と云われます。そうしてみると魚がたくさん獲れたというわけです。考えてみると、今までは人の判断や努力だけで自分たちはやって来たというのですが、今はイエス・キリストが指揮者になったからです。(右とは神の側、左とは人の側を指している意味です)。私たちの人生においても誰が指揮者になっているか、教会の指揮者が一体誰であるかということが大切なことです。
 しかし、常識や経験が否と告げることを、ただキリストの言であるという理由だけで行動に移すことは大変困難を覚えるでしょう。現代社会も私たちの経験や知識や努力さえも徒労に終わってしまうような社会です。戦争や事故、様々な災害が一切を無にしてしまうことを沢山見聞きします。
 聖書は「主に結ばれているなら自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです(コリントの信徒への手紙Ⅰ,15:58)」と語ります。復活のキリストによって神から与えられた勝利の故に「労苦が無駄になることはない」のです。これが経験や努力よりも遥かに確実な保証です。
 このキリストの言に従うことが勝利と大漁の秘訣です。この復活のキリストの故に私たちは徒労でない労働を続けることが赦されているのです。今日は教会の定期総会の日です。今年の歩みで、常識や経験に行き詰った時、呟きを止めて、岸に立たされる主の言葉に聴き、指示通りの歩みを為すものになりたいと思うのです。

2016年4月26日火曜日

2016年4月10日

2016年4月10日 主日礼拝 説教要旨
  「トマスの懐疑の解決」宇野稔牧師
  (ヨハネによる福音書20章24〜29節)

 イエスの復活後、有名なトマスの疑いのところです。トマスはイエスを見るまでは信じられないと意地を張っていました。彼は疑い深い上に人を信じることが出来ない男だったわけではありません。懐疑的というより現代の知識人のように、批判的・客観的に物事を考えようとする人物だったのです。
 要するに実証されるまでは、自分の理性が納得できるまではキリストの復活も信仰の力も信じられないというのです。
 疑うということは正しいことではありませんが、疑いを持ちながら黙っていて内向し、呟きながら去っていくことは更に正しくありません。だから「復活は信じることが出来ない」と率直に疑問をぶつけたトマスの態度はむしろ好ましいものとも言えます。
 しかし、いかなる人間もトマスの疑問を解決することは出来ないのです。どんな証明方法も論理もダメでした。ただ復活の主のみが解決出来たのです。それは何か。出会いです。どうすれば主に会うことが出来るのでしょう。
 私たちが安息日(土曜日)ではなく、主の日(日曜日)に礼拝に集うのは何故か。それは主の復活の記念日だからです。全てのキリスト者にとって復活の主を憶えそのご臨在を確信することなしにどの日曜日も過ぎ去ったことはありません。トマスの疑惑の出発点は皆んなが復活のキリストに出会った最初のイースターの夕礼拝に欠席していたということです。
 トマスだけではありません。現代でも同じように主日礼拝に集まれぬ人は復活の主に接することが出来ません。力も希望も愛も得られないのです。
 しかし、トマスは次の日曜日は出席したのです。閉じられた家の中の密かな集会に過ぎませんでしたが、復活の主は再び来て彼らの中に立ち祝福を与えられました。
 そしてトマスを、信じる者に変えられました。現代でも復活の主を記念する主日礼拝に集う者が、誰にも実証も解決も出来ないこの秘密の力に触れ、確信と希望をもつ者にされるのです。何時までも実証主義にとどまるのでなく、全てをゆだねて信じる者になりたいものです。

2016年4月18日月曜日

2016年4月3日

2016年4月3日 主日礼拝 説教要旨
  「一緒に歩き始められた」宇野稔牧師
  (ルカによる福音書24章28〜35節)


 二人の弟子がエルサレムを離れてエマオに向けて歩いています。途中話しているのはエルサレムでの出来事でした。何かあったのか。それはイエスが十字架に架けられたという事です。その時に弟子もこの二人もどのような態度をとったのでしょうか。それはイエスのことを否認する、あるいは逃げ去るということをしたのです。
 イエスが最も苦しいと感じていた時に弟子たちはそこに居合わせることが出来なかった。自分たちも捕まって十字架に架けられること、殺されることを恐れたのです。だから逃げ去ったにちがいありません。
 このことは私たちにも無縁ではありません。目の前に苦しむ人がいた時に寄り添うことが出来ずにいる。知らぬふりをして通りすぎる、イエスを裏切り見捨てた弟子たちと何ら変わらないのであります。
 二人が暗い様子で歩いていると一人の人が近づいて一緒に歩き始める。それが誰であるかわからない。そして、食事を共にした時に初めてイエスだと気付いたのです。しかしその瞬間にイエスの姿は見えなくなったが、その時、以前イエスに聖書の説き証しをしてもらっている時に心が熱く燃えたことを。ここで気づくことは、イエスは彼らが気づく前にすでに近づいて一緒に歩んでくださっていたということです。この弟子はイエスが十字架に架かった一番苦しい時に、側にいることが出来ず逃げ去った人です。
 その弟子たちにイエスは近づき共に歩んでくださっているのです。裏切り通り過ぎようとしているにも関わらず、私たちに近づき一緒に歩もうとされておられます。
 イエスは、私たちが一番苦しい時に自分を裏切り逃げ去った者のところに再度近づき、安心させ心篤くしてくださるのです。私たちがどんなに苦しい時でも、困難な中にある時も、主イエス・キリストが私たちが気づかないうちに共に歩んでくださっていることを心に留めてしっかりと希望に向かって歩んで行きましょう。

2016年4月11日月曜日

2016年3月27日

2016年3月27日 イースター礼拝 説教要旨
    「主が復活されたのだから恐ることはない」宇野稔牧師
    (マタイによる福音書28章1〜10節)


 主の復活の記事はマタイは女性の弟子が「墓を見に行った」と書き出しています。律法によって安息日には礼拝以外のことは何もできないので、安息日が終わるや否や「墓を見に行った」のだと記しているのです。
 この行動は分かる気がします。深い思いと愛情をもっていた相手が突然の出来事で奪われた時、私たちは何もできないと分かっていても無駄であっても、その近くにいたいと考えるのではないでしょうか。女性の弟子たちは、死を納得していなかったとも言えるでしょう。
 一方男の弟子たちは、行動を起こしていません。彼らは「イエスの仲間として逮捕され処罰される」ことを恐れていたのです。女性の弟子たちは、イエスに従う時は文字通り自分の全てを捨てなければならなかったのです。男子の弟子は帰るところがあったけど、当時の社会状況を考えると女性の弟子はなかったのです。イエス・キリストが全てでしたので恐れなどなかったので、イエスの墓を見に行ったのです。
 「すると」そこに神の出来事が起こったというのです。即ち、神がいて下さったのです。その出来事の前に番兵たちは恐れのあまり死人のようになってしまいます。ここに逆転が起こるのです。権力と武力をもった強い若者が「死人」のようになり、イエスを思う気持ち以外に何ももっていない女性たちが命の告知を受け取るのです(5〜6節)。
 全てを失ってしまったという失意のどん底にあった女性たちに、高らかに復活が告げられるのです。「もう恐れることはない。復活したイエスがあなたと共にいるのだから」、と。
 マタイはイエス自身が女性の弟子たちに表れたのだと記しています。「おはよう」と言っていますが、「喜べ」「平安あれ」と訳されている所もあります。復活のイエスは弟子たちに出会った時「喜べ」と一言言われたのです。「私は復活し、いつもあなたと共にいる」、だから恐れることはない、喜びなさい。これこそ、私たちへの神からの復活の使信(福音)ではないでしょうか。

2016年4月4日月曜日

2016年3月20日

2016年3月20日 棕梠の主日礼拝 説教要旨
  「荷を負う子ろばにのって」宇野稔牧師
  (マタイによる福音書21章1〜11節)
 
 
 今日は棕梠の主日です。エルサレムに入城するイエスを群衆が歓呼のことばで迎えたと云います。イエスの人生の中で最も華やかな情景です。人々はイエスがローマからユダヤを解放してくれるメシアだと期待してお祭り騒ぎを始めたのです。イエスはその真ん中を通り抜けてエルサレムへと進みます。まさに王を迎えるような行為だったのです。
 この歓迎の嵐の中をイエスは子ろばに乗って行くことは滑稽のようですが、マタイはイエスが旧約の預言の成就を行動で訴えたのだと云っています。ろばに乗るのは力の王ではなく、高ぶらない王だと云いそれを「柔和」と記しています。
 つまり真のキリストは人々が求めているような「力の王」ではなく、むしろ外面的には自ら痛み、傷つき、惨めに思えるが内面では激しい闘いをしている、そんな道を歩むというのです。人間の罪を担うため本当のメシアなのだということをイエスは子ろばに乗って示したのです。
 ろばは、持っている力を他者を倒すためではなく、他者の荷を担うという力として用いられるように躾けられたのです。
 イエスは十字架につけられました。真実を生きつつ策謀と誤解の中で死ななければなりませんでした。しかしそのような状況の中でもイエスは生き方を決して変えなかったのです。人間の弱さを担い、人に愛を示すために生きつづけられたのです。外面的には恐ろしい政治の力に翻弄されたように見えます。力弱く志し半ばに倒れたように見えます。
 人々が熱狂してり冷めたりする中で、厳しい闘いが続けられたのです。イエスは十字架の死に至るまで愛する戦いを止めることはありませんでした。強い意志と祈りとが必要としていたからです。優しいということは、真の意味で強いのです。その優しさに私たちは支えられているのです。自らが強いのでなく、支えて下さる方優しく強いのです。その方を信頼しその方に委ねて歩みたいのです。
 

2016年3月27日日曜日

2016年3月13日

2016年3月13日 主日礼拝説教要旨
  「人間さん、今日は!」金田義国牧師
           (アメリカ・サンディエゴ)
  (ルカによる福音書19章1〜10節)

 イエスは本当に特別な方でした。そこらの街を歩き回っておられる時、ありふれた平凡な人々、乞食たち、子どもたち、社会からののけ者、貧しい人々、金持ちの人々も、まるで王様、その人のお人柄、人格をそのまま重んじて、大切な人間として接しられました。ザアカイもそうでした。ザアカイは徴税人の頭でエリコと言う街の大の嫌われ者。大金持ちでしたがローマ帝国のために人々の血税を絞り取るのですから街一番の憎まれ者でした。イエスがエリコに来られると聞き、背が低かったので、大きな木に登ってイエスを見ようとしました。
 イエスは木の上にいるザアカイを見て言われます。「ザアカイさん、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まる事にしているから」。さあ、ザアカイはびっくり仰天します。「私の家に泊まって下さるのですか?何と光栄な。私のような街の嫌われ者をわざわざ選んで、お客さんとして泊まって下さるとは」。街の人たちもびっくりします。なぜ、イエスは嫌われ者であり罪人のザアカイの客tなるのか納得がいきません。
 しかしこれがザアカイにとっては大きな転換点となります。彼はもう嬉しくて嬉しくて、心の底からイエスの言葉と行動に感激したのです。彼はすっかり興奮しきって言い切ります。「先生、私は自分の財産の半分を貧しい人々に施します。もし、不正な取り立てをしていましたら、それを4倍にして返します」。金持ちが自分の財産の半分を寄付する、もし不正をしていたら4倍にして返すと言っているのですから、これは大変な犠牲です。
 一体何がザアカイにこれほど大きな犠牲を払ってまで、そこまでの大きな喜びを表すきっかけを作ったのでしょうか。お金や財産を神様として拝んでいる金持ちが救われるのは不可能です。しかしザアカイはイエスに救われました。「俺はどうせ町中の嫌われ者だ。そんなに俺を見下げるなら、ますます金を貯めてやろうと思っていた。けれどイエス様は違った。先生は俺を初めて人間扱いしてくださった。『木から降りて来なさい、今日あなたの家に泊まるから』、とイエス様は俺を人間として扱ってくださった」。これです。「人間さん今日は」。地獄から天国に変わる言葉。これが福音、よき音ずれなのです。

2016年3月22日火曜日

2016年3月6日

2016年3月6日 主日礼拝説教要旨
  「群衆がかわいそうだ」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書8章1〜10節)

6章の5千人の給食物語と今日の8章とは類似点が多いのですが、8章19節でイエスが弟子たちを叱る場面があるところを見ると、明確に別のこととして語られていることが理解できます。それではどこが違うのでしょうか。5千人の方はガリラヤ地方ユダヤ人い対して行われた奇跡物語なのに、こちらは「異邦人の地」で異邦人に対しておこなわれたものだと推測できます。それは弟子たちの「冷淡さ」です。非常に淡白に描かれているのです。
弟子たちはここは異邦人の地なのだから、自分たちは関わりたくないという思いに支配されていたのです。救いの対象外だという思いが強かったのです。全く弟子たちは愚かです。
しかしここでマルコは、この弟子たちの「信じ難い愚かさ」を強調しているのです。愚かというのは何も考えていないと云うことはなく、本当に考えなければならないことを忘れているということです。私たちも大切なことをすぐにわすれてしまう時があります。日常生活の中で神が私たちをどんなに愛しておられるかということさえ。
2〜3節で群衆からでなくイエスの方から一人一人をご覧になって配慮されたということに注目しましょう。「群衆がかわいそうだ」と云われるのです。それはイエスの深い情愛を示す言葉で「内臓」という意味を語源にもつ言葉です。イエスは群衆を憐れみ愛しておられるのです。
私たちがこの物語を読む時、弟子の立場に身を置いてしまいがちですが、実は私たちは憐れみを受け、愛されているのですから群衆の一人ではないでしょうか。何の資格もない貧しい私たちを神は愛してくださっているのです。この奇跡が「人里離れたところ」、つまり「荒野」です。疲れ果ててしまった時、魂が飢え渇いている時、食べ物のないと思えるようなところでも、神はマナを与えることが出来るお方です。主があなたを愛しておられるが故に、必要な力、知恵、人、道を必ず備えて下さいます。それがイエスが命がけで人々に教えて下さった福音なのです。残されているレントの時間、主の苦しみと受難を、この身に覚えて歩みたいものです。

2016年3月14日月曜日

2016年2月28日

2016年2月28日 主日礼拝説教要旨
  「開け!(エッファタ)」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章31〜37節)

 ここに聴力に障がいがあり、話すことが充分でない人がいます。聞こえない、話せないということはコミュニケーションが困難だということですが、機能的に限らず意味を考えるならば孤独に悩む私たちの姿に重なります。
 イエスの前にこの人は連れて来られ、イエスは人々から彼を切り離し、1対1になります。そこで奇跡が行われるのです。指を耳に入れ、唾をつけて舌に触れられることで聞こえるようになれという行為でしょう。唾は癒す力があると考えられていたのです。
 しかし注意する点は、ここでこの人が完全に癒されたのではないということです。イエスはここで、先ず天を仰ぎ、深く息をつく「ため息」をついたという行為です。ため息には、よく疲れた時にため息をつきますが、もう一つは、大切なことを全力でやり遂げた時です。イエスが癒しを行う時にため息をつく、それは人のために全力を尽くしたということでしょう。全身全霊を込めた祈りを行ったということですし、機能回復だけを願ったのでなく、この人の生涯を覆っていた苦難への共感が伴っていたのです。イエスはこの人の生涯を全身で受け止め、全身全霊で共感し、体の中から絞り出すように祈り、天の力を求めて癒しを行われたのです。
 この男性が癒されたのは、「エッファタ」という言葉によるものだけでなく、機能として聞くこと話すことに、さらに生きる根拠を与えられたということです。神に愛されているという根拠です。
 イエスは常に私たちが話せる、聞こえるようになるために全身全霊をもって臨んで下さるのです。神の言葉を聞き、語るために、そして隣人の言葉を聞き語り合うためなのです。さらに神の全身全霊を用いて私たちが本当の友となるために全力を尽くして下さったのです。この人はその愛を人々に語りました。口止めされてもなお語りました。それくらい抑え切れない衝動だったのです。
 私たちも、今本当の言葉、本当の友人、本当の愛を与えられている者として証ししていきましょう。

2016年3月10日木曜日

2016年2月21日

2016年2月21日 教区交換講壇礼拝 説教要旨
  「今を生きる」(能登川教会) 谷香澄牧師
   (コヘレトの言葉3章1〜11節)

 ギリシャ語にはクロノスとカイロスという時間を表す言葉があります。クロノスというのは時計などで計ることができる、人間が時計を発明して作り出した人間の時間です。カイロスは、人間が作ったり、管理したりすることができない時間です。管理するのではなく、いつ訪れるか分からない時を待つこと、見極めること、それがカイロスという時間を生きることです。クロノスが人間のつくった時間であることに対して、カイロスは神が備えてくださる時間だと言えます。私達は、先のことを見越して色々な計画を立てます。ところが、必ずしも計画通りにことが運ぶとは限りません。むしろ、思いがけないことが起こってきたりします。コヘレトは言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」つまり、人生の出来事は、全て起こるべくして起こっている、というのです。私達の人生において、偶然と言うことはありません。なぜなら、全ては神の計画に従って起こっているからです。
しかし、この定められた時を、自分の自由にならないといって嘆くのか、それともここには神の配慮があると見るのかでは、大きな違いがあります。人生は一度きりであり、やり直しが利きません。二度と帰ってこない大事な時です。しかも、神の計画のうちに備えられた時なのです。自分で自分の人生の意味を見出せないとしても、そこには神が与えた人生の意味がある。どんな時であったとしても、私たち自身でも意味を見いだせないと思う時でさえ、ちゃんと意味があるのです。コヘレトの言葉は、「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まりますが、神を見出した人の生涯は、決して空しくなりません。神もいなく、何の計画もない中での苦しみならば、私たちはどっちの方向を向けばいいのかも分かりません。しかし、神のなさることの全部はわからなくても、神の計画の中に生きていることが分かっているならば、私たちは神の方を向いていけばいいということになります。神は私たちにこれからどんな時を用意されているのか。時宜にかなった、美しい時を用意してくれているはずです。そのことを信じて、委ね、希望を持って生きていきたいと思います。

2016年3月2日水曜日

2016年2月14日

2016年2月14日 主日礼拝 説教要旨
  「信じる力」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章24〜30節)


 ティルスは地中海沿岸の町で、イスラエルにとっては異邦の地です。ユダヤ人は異邦人と接触を嫌うはずなのにイエスはむしろ自分からティルスに向かうのです。ユダヤ人から離れるということが目的だったのです。イエスは傲慢で頑なな人間に疲れ果ててしまったのではないでしょうか。
 そのティルスでイエスは一人の異邦人女性と出会います。この人は母で病気の娘をなんとか直して欲しいと願っています。そこには、その女性の心に起きた明らかな変化が書かれています(マタイにある記事も参照、15:21から)。両方合わせて読むと意味がよく解ります。初めは苦しんでいる「娘」を助けてくださいという考え方であったが、次に娘が問題ではなく「わたし」
を助けてくださいと願い問題は自分にあるという様に変わっています。
 私たちも様々な問題に出会うとその原因を人に求めやすい。ここに出てくる女性もその原因は自分にあり、自分が救われるのが一番大事であると気づく。イエスが示されている点もここなのです。キリスト教信仰は徹底的に個人主義でなければならないのです。キリスト信者である私たちは人に対して配慮するあまり、自分のことをおろそかにしやすい。しかし、私たちは自分自身の救いに徹し切ることが大事だと思うのです。
 イエスはその母の姿に感動するのです。疲れ果てたイエスにとってこの母こそ神の啓示であったに違いありません。疲れ果てた者を力づけるのはなんでしょうか。それはだれかが支えてくれるという信頼なのです。イエスはひれ伏す母の姿を見て大切なことはなんであるかということを確認したのではないでしょうか。母の姿は無限に広がる子どもへの愛です。そして、その母の愛よりも深く広い愛がイエスによって注がれています。人間一人一人に注がれているのです。
 この現実の中に、策謀渦巻くユダヤの中にも、いや、そこにこそ神はおられるのです。その確信を得てイエスは再び宣教の現場ガリラヤへ帰って行かれるのです。ぶれることのない信じる力をみにつけましょう。

2016年2月23日火曜日

2016年2月7日

2016年2月7日 主日礼拝 説教要旨
  「人を汚すものの正体」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書7章1〜23節)


 ファリサイ派は常にイエスの動向を見張り、弱点を探すのですが、見つけたのが弟子たちの弱さでした。彼らはユダヤ人としての基本さえ身につけていない粗忽者たちでした。その弟子たちの「なしてなさ」を利用して、イエスの評判を落とそうと考え方のです。
 目をつけられたのが、食前に手洗いをしないと云うことです。手洗いは当時はユダヤ人として基本的な律法による習慣でルールでした。それさえも守れない弟子たち、それさえも指導出来ないイエスが「救い主や偉大な預言者」のはずはないと云いたいのです。
 そのことを指摘されたイエスの答えは8節で、例に挙げたのが「コルバン」でした。コルバンというのは、神への供え物という意味で神に献げると決めたものは他に用いてはならないと云うのが云い伝えの最初の意味でした。ところが転じてコルバンとさえ云いさえすれば、本来両親を養うためのものであっても、両親に差し上げないで良いということになったのです。
 イエスはそれを例にとって「手を洗う」事には固執するくせに「他の人を愛す」事を忘れてしまっている。あるいは無視している。あなた方の有り方は全く神の御心に適っていないと指摘したのです。
 「汚す」とは何でしょうか。ギリシャ語には「受け入れない」「邪道とみなす」という意味があります。つまり、人間性を損なうということです。イエスは人を汚すものは外側からでなく、内側からのものに問題があると指摘されたのです。確かに私たちの現実は自分たちの内側から出てくる感情が様々な問題を引き起こし複雑にしてがんじがらめにしてしまっています。
  パウロは自分自身のことで嘆いていますが(ロマ7:24)律法主義で人を裁くことで自己正当化していた彼が、イエスとの出会いによって変えられたのです。キリストがどのように生きられたかが生活の中に何時もあるのです。私たちの生活の只中に神の頌域を設けることです。イエスを思う時間、空間、祈りを持つことです。

2016年2月15日月曜日

2016年1月31日

2016年1月31日 主日礼拝 説教要旨
 「悲しみの中にこそ」宇野稔牧師
 (マルコによる福音書6章53〜56節)

 ベトサイダに向けて出発したはずなのに、到着したのはゲネサレトでした。この地はカファルナウム西数キロの地点のことで非常に肥沃な土地柄で作物が豊かに取れた地域でした。ガリラヤの中でも豊かな地域にやって来られたのです。
 しかし、この地域には病で苦しむ人々が多数おられました。豊かな農園の背後で小作人として朝から晩まで働き、それでも十分な食べ物が得られず、病になっても医者にかかるお金がなく困り果てていた人が大勢いたのです。56節を見ると「村でも町でも里でも」とありますからどこにも沢山おられたのです。
 病気の人と表現されている意味は、心や魂のことも含んでいるに違いにありません。だから病気というより「悲しみ」と表現した方がよいだろうと思うのです。
 イエスが歩まれた所には悲しみが溢れていたのです。人々は悲しみ、悩み、涙を流していたのです。そしてイエスはその人の涙を拭き、慰め癒されたのでした。私たちは平凡な波風のない人生が当たり前だと常に考えていますが、イエスが出会った人々は悲しみの中にある人たちで、それが普遍であり、当たり前だったのです。
 私たちも悲しみの中を生きています。人間として生きる時、悲しみの中を生きることを避けられない現実なのです。私たちは悲しみを敢えて避けようとしますが、悲しみの中で否定しようとします。しかし、悲しみの中でせめてイエスの服の裾でも触れたいという思いが描かれていますが、それが現実の姿です。悲しみの中で息詰まりそうになる時、一つの約束と希望が与えられています。神が共にいて下さるのです。どんな形で神が私たちを悲しみの中から立ち上がらせて下さるのか、どんな業を通して私たちを慰めて下さるのか、どんな人と出会わせて下さるのか、そして私をどういう風に変えて下さるのか、約束を信じ、希望をもってそれを待ち望みましょう。「あなたの信仰はどこにあるのか」、それは悲しみ、不安の真ん中でこそ働く信仰なのです。

2016年2月9日火曜日

2016年1月24日

2016年1月24日 主日礼拝 説教要旨
  「洗礼者ヨハネ」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書14章1〜12節)


 イエスの時代力あるとされていた宗教指導者が洗礼者ヨハネでした。イスラエルに絶えて久しかった預言者の再来ではないかと捉えられていました。
 ヨハネが訴えたことは、神の審きの日が近いと云うことで全国民に対して悔い改めを求め、そのしるしに洗礼を授けていました。そのヨハネが領主ヘロデが自分の弟の妻を娶ったということを公然と批判し逮捕されます。ガリラヤとペレヤの領主ヘロデはアラビヤ王の娘アレタスと結婚していたので、ヨハネはそれは律法違反だと指摘したのです。妻のヘロデイアはヨハネを憎み、機会があれば殺したいと機会を待っていました。
 ある日ヘロデの誕生会で王の娘サロメが踊りを披露した褒美として、何が欲しいかと尋ねられ、ヘロデイアに唆され「ヨハネの首」を求めます。仕方なくヘロデはヨハネの処刑を行ったのです。
 正しく生き、正しく語ったヨハネが非業の死を遂げるというこの出来事は何だったのでしょうか。ヨハネはどんなに無念であったかと考え、ヘロデは愚かであり、ヘロデイアとサロメは残酷だと考えます。
 しかし、この馬鹿らしい行為を止める人はいなかったのでしょうか。誰も良いこととは思わなかったでしょう。疑問をもちつつ、沈黙してしまいました。沈黙は残酷です。これが人間(社会)の現実なのです。
 実はこの福音書が書かれた時、迫害の中で投獄され殺されていくキリスト者をマタイは目の前で見ているのです。
 ヨハネはイエスの道を備える者であり、生涯はイエスを示すためにあったいうのがマタイの考えです。つまり、ヨハネの死もイエス・キリストの死の予告、すなわち、十字架の予言として位置付けられているのです。
 マタイは、人間の残酷さによって無念の死に見えるヨハネの死にも「大切な意味があった」ことを伝えているのです。そして、それは同時に今日、まさに困難の中にある人々への応援歌でもあるのです。理解なくとも、残酷であっても神の愛を生き続けることを敗北とは云いません。

2016年2月1日月曜日

2016年1月17日

2016年1月17日 主日礼拝 説教要旨
  「あなたを『岩』と呼ぶ」大澤宣牧師(紫野教会)
  (ヨハネによる福音書1章35~51節)


  私が働かせていただいております紫野教会は、1944年、戦争のために教会の人々が動員されていき、教会は閉鎖されてしまいました。その時、同志社教会の牧師であった堀貞一牧師は「教会をやめるとは何ごとか」と一喝され、熱烈な祈りがささげられたそうです。順調に教会の働きがすすめられることも主の恵みの内にあり、教会が閉じられ、何も出来なくなっていき、けれどもそこで祈りがささげられることも主の恵みの内にあるのだと思います。
 イエスの弟子たちが集められた場面で、イエスはペトロのことを「岩」と呼ぶことにしようと語りかけられました。それは、ペトロや他の弟子たちが、何か良い行いをしたとか、優れた力をもっているからではありません。何も出来ないかも知れないけれども、とにかくイエスに出会わされ、イエスに招かれて、用いられていったのでした。
 阪神淡路大震災から21年の時を迎えます。今も流れない時の中をゆっくりと生きている方々がおられることを思います。地震で全壊した神和教会は、教会の土地を使って、子どもたちの夏期学校を行い、多くの子どもたちと全国から集まったボランティアの人たちと、すばらしい出会いを経験されたのでした。 何も良いことは起こらない、何も出来ないかも知れないと思われるところに、しっかりと立ち続けることの中で、主が豊かに用いてくださり、すばらしい出会いが与えられたのでした。
新しい年の歩み、私たちがどこでイエスに出会っていくのか、それぞれ問われながら、主の招く声を聞いてまいりたいと願います。

2016年1月25日月曜日

2016年1月10日

2016年1月10日 成人祝福礼拝 説教要旨
  「安心しなさい」 宇野稔牧師
   (マルコによる福音書6章45〜52節)

 イエスは弟子たちを「強いて船に乗せて向こう岸のベトサイダへ先に行かせた」とあります。私たちはこの後、弟子たちが一晩中逆風のために漕ぎ悩むことを知っています。イエスは敢えて嵐に遭遇させたのです。その事を通して弟子たちに教えたい事があったのです。「イエスは祈るために山に行かれた」のです。この時何を祈られたかと考えると、弟子たちが信仰に立てるようにと懸命に祈られたに違いありません。
 苦しい時に誰かが私のために祈っていてくれる。それが私たちを支えます。まして、イエス・キリストが私たちのために祈っていてくれていることを忘れてはなりません。
 逆風に漕ぎ悩む弟子たちを見て、夜明け前にイエスは近づいて行かれます。弟子たちはそのイエスを「幽霊」だと思ったのです。この不思議なことは神と人間の距離が表わされているのです。苦難の時に神は接近してくださるのですが、神の接近は私たちの意図とは全く異なる方法、手段、方向性だから、自分の想像とあまりに違うので、恐れたり戸惑ったりしてしまうのです。そういった悲しい状況を打ち破るものがあります。それが主イエスの言葉です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「勇気を出せ、わたしが共にいる。恐れるな」とおっしゃったのです。
 イエスが共にいて下さることで十分なのです。私たちの人生の中でどんな大きな苦難、困難に出会っても、押しつぶされそうになっても、「イエスさえ共にいれば充分なのだ」というのが聖書のメッセージです。
 何故なら、イエスこそ神、嵐を静めることの出来る方だからです。自然界の嵐だけでなく、私たちの身の回りの嵐も、心の中の嵐も静めることの出来る方だからです。
 人生の中で「漕ぎ悩む」時、「勇気を出しなさい。心配しなくてもよい、私だ、私が一緒にいる。恐れても良いのだ」
 そして、私たちが信仰に立って生きられるように、祈り支えていて下さるのです。私たち信頼すべきなのは、イエスの言葉であり、祈りなのです。

2016年1月11日月曜日

2016年1月3日

2016年1月3日 主日礼拝 説教要旨
    「私は良い羊飼い」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書10章7?18節)

 2016年がスタートしました。この年も「神・共にいます」年です。だからこそ、希望があります。そこに信頼し源をおいて歩む時、この年も祝福されていること間違いなしです。
 「イエスキリストは良い羊飼いである」というのが今日のテーマです。イエスは自分のことをわざわざ「良い羊飼い」と言わなければならなかったのは何故でしょうか。
 ユダヤ人は神を羊飼いと表現しました。そこから自分たちを神のもとに導く人も羊飼いと呼びました。それが自分の民族の政治的独立と重なって力ある指導者を「羊飼い」と呼んだというのです。しかし、そうした試みは何れも失敗に終わっているのですが、その中でイエスは自分こそ本当の「羊飼い」だという意味で「良い羊飼い」と表現しました。
 本当の羊飼いは羊のために生命を捨てるのだとイエスは云われます。我々は「生命をかけて」何々といいます。即ち、失うかもしれないけれども、自分の生命をかけるほど価値あるものを得られるという勘定が働いているのです。しかし「生命を捨てる」と云うイエスの言葉は、万が一にも自分の生命を救うことはないのです。何故、羊飼いは生命を捨てるのでしょうか。自分の生命と引き換えに、羊の生命を救うという行為なのです。
 14節で「自分の羊を知っており、羊も自分を知っているから」だと語ります。羊飼いと羊とではどちらが価値があるかといえば、羊飼いです。しかし、イエスは羊のために生命を捨てるというのです。
 これこそ良い羊飼いなのです。これほどまでの羊飼いが、これほどまでの愛がなければ私たちは生命を得ることはできないのです。羊飼いが羊を愛するように、私たちを愛して下さっているのに、その事に気づかず、知ろうとしていないのです。
 そんな私たちの現実と弱さを十分に知りつつ、その弱さと罪から救い出すためにイエスは「生命を捨てる」というのです。「価値のない私たちのために生命を捨てた人がいる」、常にそこに立ち帰って2016年も歩みましょう。それが私たちの門なのです。そこに真の生命があるのです。

2015年12月27日

2015年12月27日(日) 礼拝説教要旨
    「夜のうちに」 宇野稔牧師
 (マタイによる福音書2章13〜15節)

 クリスマスの喜びも束の間、羊飼いの告げた天使の歌声のことにしても、見知らぬ異邦の博士がささげた賜物にしても、ヨセフに訪れたこれら次々の事件にヨセフが陥った混乱と困惑の有様は目に見えるような気がします。
 そしてやっと一息ついた時、再び主の使いが夢に表われて「エジプトに逃げよ」と命じるのです。今では飛行機で2時間位の旅ですが、生まれて間もない幼子と産後まだ日も浅い妻を連れて、行ったこともないエジプトまでの遠い熱砂の道を行くことは、決して易しいことではありません。躊躇して当たり前のことです。しかし、ヨセフは、起きて夜のうちに幼子と母を連れてエジプトへ出発しました。(14節)朝まで待ちませんでした。
 ヨセフは神の言が与えられた時、直ちに行動を起こしたのです。何もわからぬまま神の命令にすぐに服従したのでした。
 聖書の出来事には「もし……だったら」という仮定法でものを考えるのは無意味なことなのですが、しかし、私たちは時々考えてしまいます。
 もしあの時にヨセフが疑問をもってすべてを明らかにしようとして「もう少し待ってください」とか「何故この話が必要なのですか」とか「エジプト以外のもっと近くに言い所はないのですか」などと反問したり、呟いていたら、幼子イエスがヘロデ王の虐殺から逃げることが出来ただろうかということです。
 多分ヨセフはこのような気持ちで先祖たちがモーセに導かれて通った砂漠の道を、逆の方向にエジプトに向けて旅をしたのです。
 これが信仰の服従であり、忠実さではないでしょうか。私たちにとって、イエスを迎えるということは、人生に一つの不安を呼び起こす事だと思います。私たちが不安になるほど深くイエスを迎え入れなければ、イエスを信じたことにはならないと思うのです。
 信仰とは、イエスを私の中に迎え、受け入れることであって、自分が僕になることなのです。舞台の主役を自分からイエスに譲ることなのです。ヨセフと共に直ちに行動を起こす者となりましょう。

2015年12月20日

2015年12月20日 降誕日(クリスマス)礼拝
    「喜びあふれて」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書2章1〜12節)


  クリスマスおめでとうございます。
 占星術の学者たちは異邦人であり、救われる資格の無い人間だと考えられていた人たちでした。しかし、彼らは救い主に会うために星を頼りに旅を始めます。自分の仕事を投げるのも同然でした。旅は心細くても「キリストが生まれた」という知らせに全存在をかけていたのです。一方ヘロデ王は、王宮に住み安定した生活でしたが、それは神を必要としない生き方を意味しております。この両者は各々、その後どんな人生を体験するのでしょうか。
 ヘロデは、キリストの降誕を聞いて不安におののき、恐れが殺意を生み悲惨へと連鎖して行くのでした。恐れが殺意を生み悲惨へと連鎖して行くのです。学者たちは、旅することの不安の中でも「星に導かれている」ことを確信し、神の御手のうちにあることを知り、神と出会って行くのです。そこには「喜びあふれる」と表現される喜びを発見します。今まで知らなかったことを新しく知ったという喜びなのです。私たちの人生の中でも同様です。即ち、キリストと出会うということは、私たちが今まで経験できなかった喜びを発見することです。
 クリスマスを迎えました。神の子の誕生の知らせをキリスト教の行事だと考えて済ませてしまうことは、神を必要としないあのヘロデの生き方に通じるのではないでしょうか。
 マタイがこの物語を通して語りかけているのは、主の誕生を知らされた者は、主の言葉に望みをおいて生きるという決断をしなければならないという呼びかけです。学者たちのように全てを神に献げて生きる決断をしなさいとの呼びかけなのです。故に、自分の善悪も含めて、そこから新しい歩みを始めるということです。御言葉という星に導かれて新しく生きる決断をするということなのです。
 この決断は私たちを新しい出会いへと導きます。私たちは神に導かれ、愛されているという事実に出会わせるのです。その時、私たちも「喜びあふれる」のです。新しい出会いの喜びに感謝しましょう。

2015年12月13日

2015年12月13日 アドベント第3主日
    「三つの宝物」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書2章1〜12節)

 クリスマスの場面で思い浮かべるものといえば、3人の学者がらくだに乗って東の国から御子の誕生を祝うために駆けつける場面です。
 東の国という言葉から、御子の誕生がユダヤ民族の枠を超えて東に広がる非ユダヤ的世界全体への神の救いの広がりを暗示していると考えることが出来ます。この記事によれば幼な子イエスを王として拝したのは学者たちだけであって、ユダヤ人たちは誰一人としてこの出来事に関心を寄せていなかったのです。
 いずれにしても当事者であるユダヤ人から遠く離れた人々に出来事の事実が明らかにされているということを抜きには、この出来事の意味を考えることは出来ません。
 また神の側から見ればクリスマスの出来事は「隠されていた」ということです。幼な子イエスの惨めさ、弱さ、貧しさは救い主イエスにとっての本質的なものであります。この世の権力とは決定的に違うのです。
 東の国の学者たちも、この世的な価値観の中に生きていました。「宝物」はそれらの象徴と考えられないでしょうか。
 しかし、彼らはそれを主イエスに差し出すのです。献げものを携えて幼な子の貧しさの前にひざまずく時、クリスマスの真の意味を感じることが出来るのです。学者たち献げた宝とは何か。それは自分にとっての大事なもの。かけがえのないものを差し出してしまうのです。それはつまり、この幼な子主イエスに対しての徹底的な服従を意味するのです。これから後の自分の命のよりどころとなるものを預けてしまうということです。それまでとは異なる価値観に生きる新しい生活に向かって歩み始める決意がそこにあるのです。
 クリスマスは、私たちの新しい歩みをもたらすための出来事です。学者たちは来た道と別の道を通って帰って行きました。自分の生活を神に委ねて変えて行こうとしたのです。
 神は呼びかけられます。「あなたも宝の箱を開きなさい」、自分の大切なものは何かを確認しなさい。それをイエスに委ねなさい。その時来た道とは別の道の発見があるのです。

2015年12月6日

2015年12月6日 アドベント第2主日 礼拝説教要旨
    「まことの光」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書1章1〜13節)

 クリスマスはイエス・キリストの誕生日の日ですが、何故神の子が人間となってこの地上に来る必要があったのだろうか。
 聖書は「すべての人を照らすまことの光」としてこの世に来られたとあります。2千年前に既に光としてイエス・キリストは来ました。キリストの誕生が元年。この事実は変わることはありません。ではそれを私たちはどう受け止めるべきでしょうか。
 今日の聖書、ヨハネは降誕物語をもって始めるかわりに、言(ロゴス)、命(ライフ)、光(ライト)という三つの言葉をもって描き出しています。この言はその最も深い意味でキリストご自身と主が私たちに与えて下さったものを表しています。9節のこの世を照らすために来られたという言葉は、この世界は闇の世界であるということです。この世界は神様が創造された時は「非常によかった」と神が評価した世界でした。
 しかし、人間に罪が入って来たことにより、今は世界に悪が溢れているということです。即ち、「まことの光」であるということは、偽物の光もあるということです。民がキリストを受け入れなかったのは、偽物の光が溢れているから、敢えてキリストを求める必要がなかったのです。罪の世界に住んでいる私たちは、闇の世界であっても生活できるのです。しかし、電源が切れると消えてしまうような偽物の光に私たちを幸せにする力はありません。キリストが来られたのは偽物の光の中、幸せであるかのように振る舞う私たちのために来られたのです。
 そのために、キリストは神の栄光の全てを捨てて来られました。神は私たちが救われるために何でもなさいます。故に、まことの光を受け取るように求められています。この光であるイエス・キリストを受け入れるならば、神の子となることが可能なのです。
 先ずは自分自身がまことの光にいつも照らされ続けていることです。それはただ、イエス・キリストを心に迎え入れ、キリストが私の内で輝くことを求めるのです。

2015年11月29日

2015年11月29日 アドベント第1主日 礼拝説教要旨
    「告知を受け入れる信仰」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書1章18〜25節)

 
 クリスマスは神ご自身で救いの出来事を完成することができるはずなのに、沢山の人を登場させ人を用いてクリスマス物語を生み出されたのです。神が人々を選んで救い主誕生の物語を紡いで下さったといえます。
 また、視点を変えて人から見ればクリスマス物語は神の告知を受け入れる信仰の物語です。ヨセフを通してみますと、婚約者マリアの妊娠が知らされます。その時いくつかの選択がありましが、彼はこの話しを公にしないで離縁することにしたのです。それによってマリアは別の場所に移り住みそこで子どもを産むことになるのです。
 ところが天使が登場し夢の中で「マリアと結婚しなさい。マリアの子どもは聖霊によって宿ったものである」といったのです。
 皆さんがヨセフなら、夢を信じるでしょうか。婚約者マリアの事実は受け入れ難いものに違いないと思うのです。しかし、告知を受け入れることは受け入れ難い事実を受け入れることを意味したのです。
 私たちも同様に受け入れ難い事実の前に立たされることが多くあります。愛する人を失った時、病いを負った時、理不尽な苦しみに直面した時、「受け入れられない」と感じます。その事実の中に身をおいて、あなたは何を信じるのかと神は問われているのです。
 ヨセフは夢で与えられた神の告知を信じます。マリアを妻として迎え救い主は誕生したのです。ヨセフが偉かった訳ではありません。神は人間の信仰を用いて降誕の業を実現して下さったのです。それは私たちへの招きなのではないでしょうか。私たちも受け入れ難い事実の前にいます。そしてその事実の前で、神にあって希望を持つようにと奨められているのです。マリアもヨセフも受け入れました。クリスマスは「神、我らと共にいます」を信じる時です。神はあなたと共にいます。どんな苦しい状況にあっても、それは変わらない神からの告知なのです。告知を受け入れて信じるものとなり、クリスマスを迎えましょう。

2015年11月22日

2015年11月22日 収穫感謝日 説教要旨
    「主がくださった恵み」 宇野稔牧師
(申命記26章5〜11節)

 
 こんな実験をした人がいます。フラスコに真水を入れて1種類だけのバクテリアをこの水の中に放したのです。バクテリアが育つために適当な栄養と酸素を供給しました。するとどんどん増えて来て、やがて栄養物がなくなって酸素も足りなくなり、みんな死んでしまうのです。
 それでは、フラスコの中でバクテリアが生き延びるためにどうしたらよいか、それは1種類だけではだめで色々の種類のバクテリアがいて、はじめてお互いに互助関係で共存できるのです。面白いのは、色々なバクテリアがいて、強いもの弱いものもいるという所です。でも強いバクテリアが自分のことばかり考えていると、弱いバクテリアはみんな死んでしまうのです。
 強いバクテリアが自分の力を弱くして、弱いバクテリアが排出するものを栄養にして生きれるようにしたら、両方とも生きられるのです。バクテリアが生き残るためには弱いバクテリアが必要ということなのです。
 この実験結果には、神が教えてくださっている大切な点と共通するものがあります。フラスコは地球です。色々な人が住んでいます。強い人も弱い人も。社会は強い人が偉いとか、凄いとか云われています。でももし強い人だけが地球の中に残ったら結局皆んな滅んでしまうのです。皆んなが一緒に生きていくためにはお互いが自分の気持ちを少し我慢して自分のもっているものを分け合わなければいけないのです。弱い人と一緒に生きることで皆んなが生きることになり、神の恵みを分け合うことでともに生きられるからです。
 いのちも、家族も、持ちものも、食べもの全て神様よりいただいた恵みなのに、すぐに忘れてしまい「自分のものだ、自分で手に入れたものだ」と思い込んでしまいます。でもこの考え方は「強いバクテリアだけで生きようとする」ことと同じで、結局皆んなが滅んでしまう道です。
 今日は収穫感謝の礼拝です。沢山の恵みを下さった神に心からの感謝をささげる日です。そして、それを皆んなで分かち合うことが神のみ心であるということを皆んなで確かめあって分かち合って一緒に生きましょう。

2015年11月8日

2015年11月8日召天者記念礼拝 説教要旨
    「信じる者は死んでも生きる」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書11章23〜27節)

 
 人間にとって大切なもの、イエス・キリストは、それは道であり、真理であり、生命であると云います。ところが私たちの今の時代はその真理を見失っている時代なのです。真理が軽んじられています。皆んなが自分が得することばかりを考えているのです。本当に大切なものを求める気持ちがなくなりつつあるのではないでしょうか。それはちょっとした事から見間違ったり、読み違ったりするからです。
 例えば「貪」と「貧」です。この二つは大変似ている字ですが全く違う意味を持っています。一つは貪欲の貪です。もう一つは貧しいの貧です。共通している点は貝です。貝はお金を意味し、貪の上の「今」はお金を隠す、即ち独占してしまうことを意味します。それが貪欲の正体だというわけです。他方、貧するというのはお金を分けるという意味で上が空いているのです。
 中野孝次が「清貧の思想」という本に、清貧とはただ貧しいということではなく、自然と生命を共にして万物と共に生きることだと書いています。独占することではなく分かち合うことだという生き方がそこにあるのです。
 たとえ貧しくとも心が清らかで、持てるものを互いに分かち合いながら生きること、それが幸福への道であり、神が喜ばれる生き方だと思うのです。
 ここに今までに召天された方が661名おられます。この信仰の先達たちはイエスの道を一生懸命に生きた人々でした。イエスは「わたしは道、真理、いのちである」と云われており、キリスト者の生き様はまさにキリストに支えられ、共に分かち合って生きることを指し示しているのです。
 661名の方々の生を思い起こす時、彼らは召天されましたが、確かに今も私たちに真理を語りかけておられるのです。彼らの肉体は滅びても、彼らの信仰は生きていて、語りかけ続けておられます。まさに、信仰者は死んでも生きるのです。先達たちへの感謝をささげましょう。