2016年1月11日月曜日

2015年12月13日

2015年12月13日 アドベント第3主日
    「三つの宝物」 宇野稔牧師
(マタイによる福音書2章1〜12節)

 クリスマスの場面で思い浮かべるものといえば、3人の学者がらくだに乗って東の国から御子の誕生を祝うために駆けつける場面です。
 東の国という言葉から、御子の誕生がユダヤ民族の枠を超えて東に広がる非ユダヤ的世界全体への神の救いの広がりを暗示していると考えることが出来ます。この記事によれば幼な子イエスを王として拝したのは学者たちだけであって、ユダヤ人たちは誰一人としてこの出来事に関心を寄せていなかったのです。
 いずれにしても当事者であるユダヤ人から遠く離れた人々に出来事の事実が明らかにされているということを抜きには、この出来事の意味を考えることは出来ません。
 また神の側から見ればクリスマスの出来事は「隠されていた」ということです。幼な子イエスの惨めさ、弱さ、貧しさは救い主イエスにとっての本質的なものであります。この世の権力とは決定的に違うのです。
 東の国の学者たちも、この世的な価値観の中に生きていました。「宝物」はそれらの象徴と考えられないでしょうか。
 しかし、彼らはそれを主イエスに差し出すのです。献げものを携えて幼な子の貧しさの前にひざまずく時、クリスマスの真の意味を感じることが出来るのです。学者たち献げた宝とは何か。それは自分にとっての大事なもの。かけがえのないものを差し出してしまうのです。それはつまり、この幼な子主イエスに対しての徹底的な服従を意味するのです。これから後の自分の命のよりどころとなるものを預けてしまうということです。それまでとは異なる価値観に生きる新しい生活に向かって歩み始める決意がそこにあるのです。
 クリスマスは、私たちの新しい歩みをもたらすための出来事です。学者たちは来た道と別の道を通って帰って行きました。自分の生活を神に委ねて変えて行こうとしたのです。
 神は呼びかけられます。「あなたも宝の箱を開きなさい」、自分の大切なものは何かを確認しなさい。それをイエスに委ねなさい。その時来た道とは別の道の発見があるのです。

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