2016年1月11日月曜日

2015年11月8日

2015年11月8日召天者記念礼拝 説教要旨
    「信じる者は死んでも生きる」 宇野稔牧師
(ヨハネによる福音書11章23〜27節)

 
 人間にとって大切なもの、イエス・キリストは、それは道であり、真理であり、生命であると云います。ところが私たちの今の時代はその真理を見失っている時代なのです。真理が軽んじられています。皆んなが自分が得することばかりを考えているのです。本当に大切なものを求める気持ちがなくなりつつあるのではないでしょうか。それはちょっとした事から見間違ったり、読み違ったりするからです。
 例えば「貪」と「貧」です。この二つは大変似ている字ですが全く違う意味を持っています。一つは貪欲の貪です。もう一つは貧しいの貧です。共通している点は貝です。貝はお金を意味し、貪の上の「今」はお金を隠す、即ち独占してしまうことを意味します。それが貪欲の正体だというわけです。他方、貧するというのはお金を分けるという意味で上が空いているのです。
 中野孝次が「清貧の思想」という本に、清貧とはただ貧しいということではなく、自然と生命を共にして万物と共に生きることだと書いています。独占することではなく分かち合うことだという生き方がそこにあるのです。
 たとえ貧しくとも心が清らかで、持てるものを互いに分かち合いながら生きること、それが幸福への道であり、神が喜ばれる生き方だと思うのです。
 ここに今までに召天された方が661名おられます。この信仰の先達たちはイエスの道を一生懸命に生きた人々でした。イエスは「わたしは道、真理、いのちである」と云われており、キリスト者の生き様はまさにキリストに支えられ、共に分かち合って生きることを指し示しているのです。
 661名の方々の生を思い起こす時、彼らは召天されましたが、確かに今も私たちに真理を語りかけておられるのです。彼らの肉体は滅びても、彼らの信仰は生きていて、語りかけ続けておられます。まさに、信仰者は死んでも生きるのです。先達たちへの感謝をささげましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿