2016年5月31日火曜日

2016年5月15日

2016年5月15日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「神の力・霊の力・炎の力」宇野稔牧師
  (使徒言行録2章1〜8節)

 聖霊降臨日です。イエスが弟子たちから離れて天に昇ってから「助け主を送る」との約束を信じて待っていました。五旬祭の日についに「神の定めた時」が満ちて助け主が与えられたのです。その時の様子が具体的に記されているのが2と3節です。ここに記されている超自然現象は、神がそこに現れたということを表現するための古代人ルカの文学表現です。
 聖霊とは、ルーアッハというヘブル語ですが、これには「風」「息」という訳があります。イスラエルでは2種類の風が吹きます。一つは東風。激しい東風は砂漠や荒野から吹きつける風でした。熱風の中に砂を伴い、作物を駄目にし、生活を破壊し、ひどい時には町の機能さえ奪っていく破壊的力をもつ風のことです。「草は枯れ花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」(イザヤ40:7)。これはまさに東風のことです。
 もう一つは西風です。地中海から吹き込む風です。冬の渇いた地に雨を降らせるのは西風です。夏の西風は灼熱の太陽にさらされている人間に穏やかで涼しい地中海の空気をもたらし、大地と人間を生き返らせる力、それが西風です。風は神の力です。人も国も滅ぼすことの出来る神の力なのです。しかし、その神の力は渇ききった人間の魂を潤し、慰め、生き返らせる力でもあるのです。国を滅ぼすことさえ出来る神の力、それが人を生かすために用いられるというのが「聖霊の働き」なのです。
 私たちの生活で途方にくれたり、不安や絶望したり、劣等感にさいなまれたり、そういう生き様の中で泥だらけになっている時に聖霊は「弱い私たちを助け、聖霊自ら言葉に表せない呻きをもって、私たちのために執りなしてくださるのです」(ロマ8:26)。
 私たちは聖霊を受けています。だからイエスを信じることが出来るのです。この社会の中で神の力、霊の力、炎のような愛によって生きる者となりましょう。

2016年5月24日火曜日

2016年5月8日


2016年5月8日 主日礼拝 説教要旨

「誰が一番偉いのか」宇野稔牧師

(マルコによる福音書9章33〜37節)

 イエスは十字架を思い一歩一歩祈る思いで一心にエルサレムへ向かう時に、弟子たちは「誰が一番偉いか」という話しをし、自分の出世を虎視眈々と考えているのです。弟子たちは何と情けないのでしょうか。その弟子に対してイエスは、どっかりと座わり込んで、弟子たちをそこに呼び寄せたのです。つまり弟子たちも座らせたという事です。

 このスタイルは、弟子たちが寝食を共にしてきたことを思い起こすという効果があったのです。「今あなた方が関心を払うべきことは、誰が偉いかではなく、力を合わせるべき時なのだ」と云いたかったのではないでしょうか。

 そしてイエスは「一番になりたいなら、すべての人に仕えなさい」と語られたのです。さらに「仕える」という意味を知らせるために一つの行動を示されます。イエスは立ち上がり、周りにいた子どもを連れて来て、真ん中に子どもを立たせ、抱き上げられたのです。私たちはこの光景を違和感なく受け止めますが、当時の社会状勢を考えると、非常に珍しかったのです。子どもや女性は当時半人前の人間としてしか扱われていなかったのですから。しかしイエスが表したのは、子どもと女性を一人の人格者として受け入れられた、即ち、この世界の最も小さいもの、弱いものを受け入れられたのです。

 この意味するところは、私たちが生きる姿勢を全く変えること、自分の在り方を変えることを示されているのです。私たちもまた「偉くなりたい」という思いで生きてきていたのでしょうが、その時私たちは大切なもの、見失ってはならない大事なものを失くしてしまっているのです。私は30年間の幼児教育の現場で、卒園児に送る言葉として「偉い人になるより、賢い人になれ」と云い続けました。

 イエスは私たちに「さあ、座りましょう。一緒に座ってもう一度、中心にイエスがいて下さるということに心を留め、私たちの生き方を変えよ」と呼びかけておられるのです。耳を澄まして聴きましょう。

2016年5月21日土曜日

2016年5月1日

2016年5月1日 主日礼拝 説教要旨
  「理解できない言葉・愛」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書9章30〜32節)

 イエスの宣教の中心地はガリラヤでしたから、ガリラヤには親しい友が沢山いたに違いありません。しかし、イエスはガリラヤを急いで通過して、しかも人に気づかれないように、隠れるようにして駆け抜けたというのです。何故でしょうか。イエスはエルサレムに行き十字架につく決意をしていたのです。そこから考えると、それは十字架への道を最短で取ったということではないかと考えます。
 そこには、イエスの強い思い、強い意志、イエスの深い気持ちが表れていたと見るのが良いと考えます。イエスは祈りつつ、ただ一直線に十字架へと向かわれました。その祈りの中でイエスは2度目の十字架と復活を告げます。しかし、弟子たちは「この言葉がわからなかった」のです。言葉自身は難しいものではありません。誰にでもわかる言葉だと思うのです。何故弟子たちは理解できなかったのでしょうか。ここに出てくる「ことば」はギリシャ語でレーマといいます。マルコ福音書では2回使われていて、もう一つはペトロの裏切りの場面です。「あなたは3度私を知らないというだろう」というイエスの言葉を思い出し、、、のところです。つまり、ことばとしては解っていても当事者がそのことを信じることが出来ない、そういう意味をもつ言葉として用いられているのです。
 弟子たちは自分の本当の事と受け止めて、その言葉に向かって生きることが出来ないので、心を背けているのです。だから「恐ろしくて聞くことが出来なかった」のです。それは、弟子たちが自分の本当の罪深さと弱さとを理解していないからです。イエスの十字架によってでしか救われないという自分の本当の惨めさに気づいていないからなのです。
 イエスが十字架につけられた時、弟子たちは一目散にイエスを捨てて逃げ去りました。自分の醜さを目の当たりにして、どれほど悲しい存在なのかを知ったのです。そして、裏切った弟子たちを十字架上でもなお愛し続けられたイエスを目の当たりにした時、何故イエスが殺されなければならないかを初めて理解したのです。イエスの愛は理解出来ない程の深い大きい愛なのです。

2016年5月11日水曜日

2016年4月24日

2016年4月24日 主日礼拝 説教要旨
  「祈りの力」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書9章14〜29節)

 イエスは山から降りられると一人の人が近寄って来てイエスに話します。息子をイエスのもとに連れてくると発作を起こしながら倒れ込んでしまうというのです。目の前で苦しんでいる子どもを前にして父親は気が気でなかったのでしょうが、イエスはその時息子を癒そうとせずに、父親と話し始めたのです。しばらく会話が交わされたのちようやくイエスは癒しを行い、息子の発作は収まります。それまでは弟子たちが癒すことができず恥じたのは何故か。それに対してイエスは「祈りによらなければ決して悪霊を追い出すことは出来ない」と言われたのです。
 さて、この物語の中で誰が祈ったのでしょうか。イエスでしょうか、弟子たちでしょうか。言葉としては出てきません。イエスが云う祈りとは何でしょうか。それでこの点を考える時、イエスと父親の会話が気になります。苦しんでいる子どもを目の前にしながら何故イエスは問答を繰り返したのでしょうか。つまり、今回の癒しの対象は息子の病いでなく、むしろ息子の病いを癒すことを通して父親を癒されたのです。この父親こそ私たちの象徴なのです。
 イエスの癒しの対象は「不信仰な時代」そのものです。父親はイエスとの会話の中で「信じます。信仰のない私を助けてください」でした。祈りとは、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」という父親の叫びなのです。自分の前に立ちはだかる現実を直視し、自分にはとても力に余ると思う時、人間は神に叫ぶのです。「助けて下さい」これは他人任せの考えではなく、全力を尽くそうとも困難は自分の力以上であるという事への魂からの真摯な嘆きなのです。その祈りの中で人は神の存在と力とを経験するのです。「信仰のない私を助けて下さい」という叫びが祈りです。その叫びに応えて、神が私たちに信じることを許して下さるのです。だから、信仰こそ神の恵みであり、神の祝福であり、神の奇跡であり、神の癒しなのです。
 この恵みによって、不信仰な時代を打ち破っていく神の可能性が私たちの前に広がるのです。

2016年5月3日火曜日

2016年4月17日

2016年4月17日 主日礼拝 説教要旨
  「大漁を保証するみ言葉」宇野稔牧師
  (ヨハネによる福音書21章1〜8節)

 十字架にて殺されてしまったイエス・キリストの最後は、弟子たちには失望とか落胆という言葉では表せない程の大きな衝撃でした。いわば虚脱状態のままちりぢりになり、エルサレムからガリラヤ湖に帰って来ました。
 そして、ペトロが「私は漁に行くのだ」というと他の連中も一緒に出かけ網を打ちますが、全然収穫はなかったのです。
 焦りと疲れで茫然としている弟子たちにイエスは舟の右の方へ網を下ろしてみなさい(6節)と云われます。そうしてみると魚がたくさん獲れたというわけです。考えてみると、今までは人の判断や努力だけで自分たちはやって来たというのですが、今はイエス・キリストが指揮者になったからです。(右とは神の側、左とは人の側を指している意味です)。私たちの人生においても誰が指揮者になっているか、教会の指揮者が一体誰であるかということが大切なことです。
 しかし、常識や経験が否と告げることを、ただキリストの言であるという理由だけで行動に移すことは大変困難を覚えるでしょう。現代社会も私たちの経験や知識や努力さえも徒労に終わってしまうような社会です。戦争や事故、様々な災害が一切を無にしてしまうことを沢山見聞きします。
 聖書は「主に結ばれているなら自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです(コリントの信徒への手紙Ⅰ,15:58)」と語ります。復活のキリストによって神から与えられた勝利の故に「労苦が無駄になることはない」のです。これが経験や努力よりも遥かに確実な保証です。
 このキリストの言に従うことが勝利と大漁の秘訣です。この復活のキリストの故に私たちは徒労でない労働を続けることが赦されているのです。今日は教会の定期総会の日です。今年の歩みで、常識や経験に行き詰った時、呟きを止めて、岸に立たされる主の言葉に聴き、指示通りの歩みを為すものになりたいと思うのです。