2016年5月11日水曜日

2016年4月24日

2016年4月24日 主日礼拝 説教要旨
  「祈りの力」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書9章14〜29節)

 イエスは山から降りられると一人の人が近寄って来てイエスに話します。息子をイエスのもとに連れてくると発作を起こしながら倒れ込んでしまうというのです。目の前で苦しんでいる子どもを前にして父親は気が気でなかったのでしょうが、イエスはその時息子を癒そうとせずに、父親と話し始めたのです。しばらく会話が交わされたのちようやくイエスは癒しを行い、息子の発作は収まります。それまでは弟子たちが癒すことができず恥じたのは何故か。それに対してイエスは「祈りによらなければ決して悪霊を追い出すことは出来ない」と言われたのです。
 さて、この物語の中で誰が祈ったのでしょうか。イエスでしょうか、弟子たちでしょうか。言葉としては出てきません。イエスが云う祈りとは何でしょうか。それでこの点を考える時、イエスと父親の会話が気になります。苦しんでいる子どもを目の前にしながら何故イエスは問答を繰り返したのでしょうか。つまり、今回の癒しの対象は息子の病いでなく、むしろ息子の病いを癒すことを通して父親を癒されたのです。この父親こそ私たちの象徴なのです。
 イエスの癒しの対象は「不信仰な時代」そのものです。父親はイエスとの会話の中で「信じます。信仰のない私を助けてください」でした。祈りとは、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」という父親の叫びなのです。自分の前に立ちはだかる現実を直視し、自分にはとても力に余ると思う時、人間は神に叫ぶのです。「助けて下さい」これは他人任せの考えではなく、全力を尽くそうとも困難は自分の力以上であるという事への魂からの真摯な嘆きなのです。その祈りの中で人は神の存在と力とを経験するのです。「信仰のない私を助けて下さい」という叫びが祈りです。その叫びに応えて、神が私たちに信じることを許して下さるのです。だから、信仰こそ神の恵みであり、神の祝福であり、神の奇跡であり、神の癒しなのです。
 この恵みによって、不信仰な時代を打ち破っていく神の可能性が私たちの前に広がるのです。

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