2016年11月21日月曜日

2016年11月6日

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝説教要旨
  「生涯の日を数える」宇野稔牧師
  (詩篇90篇3〜12節)

 お名前が記されている669名の方を覚えての礼拝です。死は自然のことでありますが、12節には生涯の日を正しく数えるように教えて下さいとあります。しかし数えるとはどういう意味でしょうか。数えるとは必ず死があるということです。限界のある生涯を送るのは、どのように正しく数えていくのか、即ち、神の前にどのように生きて行くべきかなのです。故に、その知恵ある心を得させて下さいと要求されていると思うのです。
 しかしながら、人間の知恵とは賢くはありません。例えば、愛する人々の死を前にして、何故何故と問い続けてしまいます。こんなにも早くなら間違いではないですか、と。死と向き合う時、神の御業を現すべく生涯の日を数えて行かなくてはならないのに、主の御旨を正しく知るということは、中々わからないものです。しかし、一人の人生はその長短ではありません。この世に生きている、この世にいなくなっても生きている間に神の前にどう生きたかがものを云うのです。まさに、キリストに結ばれた者は、命なくとももの種であるということを教えられます。
 人は死んでも今なお語るということは本当です。私たちの生涯は罪と死の恐怖から救い出されました。このイエス・キリストの死が何のためだったのか、このことを正しく考える時に、その事自体が知恵ある心となるのです。十字架の死がこの罪と死の力を打ち破って私たちを救い上げて下さったのです。ですから、このことを信じ受け入れることが知恵ある心であり、<主を畏れる>ことは知恵の始めであるとあるように、主を畏れ主のなされる御業を受容することです。
 私たちは恵みにより救いにあずかっています。恵みにより生きているものは、命なくてももの種なのです。従って生きるにも死ぬるにも、この身に公然とキリストの御業が現れることを願うのが、おのが日を数えて生きる者の姿ではないかと思うのです。
 先に召された669名の兄弟姉妹の上に、主の豊かなお慰めをお祈りします。

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