2017年1月2日月曜日

2016年12月18日

2016年12月18日主日礼拝説教要旨
  「主の日が来る前に」宇野稔牧師
   (マラキ書3章19〜24節)

 この書は旧約聖書と新約聖書への繋ぎとして、ふさわしいということでここに置かれているのです。
 19節に「見よ、その日が来る」と云われていますが、正確には「その日は来ている。来つつある」となります。つまりはその日というのは終末の日のことです。その日は「炉のように燃える日」と云われ、裁きの日です。高慢な者、悪を行う者など、主の日が来た時には、彼らは燃え上がり、枝葉の一つさえ残らないといい、その日が来ていると警告しているのです。
 しかし、神を信じる者にとっては、その同じ日が全く違う日になるとも云われています。マラキ書は私たちに対して、主の日がかならず来ると宣言します。そこにある重大な意味と価値は主の日には明らかになると。そして、高慢な生き方をしている者は、主の日には自分がいかに虚しい人生を生きてきたかを知ることになるのです。
 苦難に会う日などに私たちはなぜ、主が沈黙しているのかと思うかもしれません。しかし、マラキ書はその時は神の「備えの日々である」というのです。高慢な生き方をしている者は、主の日には自分が如何に虚しい人生を生きて来たかということを知ることになるからです。
 終りの日は必ずやって来ます。その時高慢な人は裁かれ、苦難の中を歩んでいる人々、神を信じる人々はその信じていることの正しさが証明されるのだというのです。即ち、17節にあなたたちの神の宝となると云われます。そういう私たちのために神は21節で「恐るべき日が来る前に」、主の日がくる前に神はエリヤを遣わす、とあります。つまり、神のことばをあなたたちに告げる人のことです。主の日に私たちが滅びてしまうようなことにならないためです。その方は誰か、私たちが一人も滅びないで永遠のいのちを得るために、この世に来て下さったのが、イエス・キリストです。旧約の最後はキリストは来るという預言なのです。
 イエス・キリストこそ義の太陽(20節)です。そして癒やしの力です。イエス・キリストが来て下さることを覚え、そのイエスを見つめつつ主の日を待ち望むのです。

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