2017年1月23日月曜日

2017年1月8日

2017年1月8日 主日礼拝説教要旨
  「喜び、祈り、感謝」宇野稔牧師
   (フィリピの信徒への手紙1章3〜6節)

 今日は成人の日祝福礼拝です。2001年にこの平安愛児園を卒園された16名を覚えます。その内、本日は教会員家族に成人になられた方々を招き3人の方が出席されておられ、祝福いっぱいの礼拝です。
 3節でパウロは「思い起こす度に」というのは執り成しの祈りのことです。対立する二者の間に立って事態が好転するようにうまく取り計らうということで、祈っているというのです。しかも感謝していると云います。こういうことはしばしばあることで、誰かに祈られている事に気がついていないのです。パウロの執り成しの祈りは最終的には神に「委ねる」ことです。
 4節には、だから神に委ねたので、もう考えることは止めにしようというのでなく、逆に「いつも喜びをもって祈る」と書かれているのです。喜びの根拠をどこにおいているのか、私たちはキリスト教を信仰しつつも、その生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないか、どんなに困った状況の中からでも神は必ず道を備えて下さるという希望を持ちつつ、その事柄に関わっていくということなのです。
 5節は「福音にあずかっています」。「あずかる」は交わりと訳されるのですが、過去から今日まで神が招き入れてくださっていることを云うのです。
 6節は将来のことです。「救いを完成して下さるのもまた、神であると確信する」とパウロは云っています。私たちの将来にあるものは「救いの完成」という喜びの出来事なのです。
 私たちは自分のあまりの惨めさに、生きる力を無くしてしまうこともあります。勇気がもてなくなります。しかし、そのような時に共にいて下さる神を思い起こすのです。神は過去から現在までいつも私たちと共にいて下さいます。そして今も共にいて救いの完成へと導いて下さっているのです。「私の救いは神による以外にない」のです。私たちは確信をもって私の将来を神に委ねていくことが出来ます。そのしるしが「今日まで神は私たちを導いて下さった」という事実なのです。今を喜び祈り感謝して明日に向かって歩み続けましょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿