2017年3月6日月曜日

2017年2月19日

2017年2月19日 主日礼拝説教要旨
  「主が受け入れて下さるから」宇野稔牧師
   (ルカによる福音書4章16〜30節)

 イエスが公生涯を始めてから、故郷であるナザレに戻って礼拝を守った時のことです。イエスがイザヤ書を朗読しその解説しました。「会堂にいる全ての人の目がイエスに注がれていた」とある通り注目の中で「このことばは今日実現した」と宣言したのです。
 故郷であるナザレでは歓迎されない中で、何故イエスは今日実現したという言葉を発したのでしょうか。前半の穏やかな部分と後半の大荒れの部分をつないだ言葉の故に。
 イエスはイザヤ書を読みました。解放と救いの預言の箇所を朗読して、宣言するのです。「今日、救いは実現した」と云われたら神の民であるユダヤ人は飛び上がって喜ばねばなりませんでした。そして、救いが実現した者として生き始めなければならなかったのです。
 ところが彼らは、その宣言を受けていながら、ただ「聞いて喜んだ」だけだったのです。御言葉は実現したという宣言は契約としてなされたものです。契約であるということは、守った人間だけがその味を味わうことが出来、契約を守らない者は契約の受け手になることは出来ない。約束にまともに従って行かなければその約束の成就を見ることは出来ない。私たちが神の言葉を信じたなら、神は真実な方であるから、その約束を守って「下さる」という現実に出会い、その体験が大切なのです。
 私たちは、神が人となってこの世界に来て下さった。それくらい私たちを愛しておられると云うことを聞いています。どんなに苦難の時にも、それは私たちにはそう見えるだけで、実は神は最善をなして下さっていることを聞いています。神は決して見捨てず共にいて下さり歩む力を下さるということも聞いています。それでイエスは「それをあなたは実現したと信じるか、この言葉を信じて生きているか」と尋ねておられるのです。
 ナザレの人々は、イエスを歓迎せず、町の外へ追い出し殺そうともしました。私たちはどうでしょうか?
 この言葉は実現したと信じて生きること、それをイエスは望んでおられるのです。私たちは主が全てを受け入れて下さっているのだから。


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