2017年4月11日火曜日

2017年3月26日

2017年3月26日 主日礼拝説教要旨
  「目を覚ましていなさい」 宇野稔牧師
  (マルコによる福音書13章28~37節)
 この箇所は小黙示録と云われるマルコ福音書13章最後の部分、いわば結論部です。13章の冒頭部分を見ると弟子たちが目に見える神殿の立派さに感嘆を覚えるところから始まっています。それに対して、イエスは目に見えるものはすべて滅びる時が来ると云うのです。そして、そのしるし、徴候があると云われ、いちじくの話が取り上げられています。それは同じように時代の中で神の終末の時が近いことを現しているというのです。
 しかし、32節「その時は、だれも知らない、イエスさえも」神以外は知っているものはないというのです。私たちはやがて終わりの日が来るのを待ち望んで今日を精一杯生きることを示されています。しかし、私たちの日常の中で経験していることは虚偽と不安で塗り固められたこの世界の中で生きる喜びを失っている現実があります。同時に自分の小ささばかりに目が向いてしまうのです。しかしイエスは「天地は滅びても私のことは滅びない」と宣言します。イエスの生涯は小さき者を愛する生涯でした。イエスが私を愛しているという真実は滅びない。だから「いつも目を覚ましていなさい」と云われます。それは本当のものを見つめ続けなさいと云うことです。それは神の言葉ですし、神の愛です。
 もう1つの意味は、情景は夜です。目を覚ましているというのは、皆が寝ている間に起きているということです。目を覚ましていて夜明けが来ることを一番に知らせるのです。夜明けは必ず来ることを知らせるのです。私たちはどんな苦難にも勝る神の恵みを信じます。そしてその信仰がすべての人の希望となるのです。
 イエスが言葉を語る時、簡単な気持ちで語っていません。十字架という闇へさえイエスは自ら赴くのです。それが深い闇であろうと神の言葉が示すなら最後には神の勝利があることを信じて歩んでいるのです。将来の光をじっと見つめ続けるのです。イエスは、人間を救うものはただ神の言葉だけであると断言されるのです。「目を覚ましていなさい」。

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