2017年6月28日水曜日

2017年6月11日

2017年6月11日 主日礼拝(子どもの日・花の日)
子どもの教会と合同礼拝 説教要旨 宇野稔牧師
「イエス様と私たち」 マルコによる福音書10章13~16節
イエス様は木の下に腰を下ろして一休みしておられます。ガリラヤ湖からそよ風が気持ちよくみんなのほほを撫でていきます。毎日毎日忙しくされるので、お弟子さんたちはイエス様に少しでもお休みの時を作って、お疲れにならないようにと考えての事でした。イエス様の日常は泣いている人や病気の人のそばに行って「泣かなくてもよいよ、元気を出してね」と励まし、お話を聞かせてくださいと云って人々が集まってくると一生懸命にお話をされるのです。夜になると一人でお祈りをされていたのです。
 するとその時、向こうの方から大勢の人がこちらにやって来ます。走り回って騒ぐ声や、泣き声、大声がだんだんと近づいてきます。そこでペトロさんが立ち上がってこう云いました。「静かにしてください。イエス様がお休みなんです。」と。すると「でも、私たちはイエス様にお会いしたいと思って来たのに」とお弟子さんと女の人たちとが云いあっている間も子どもたちは嬉しそうに走っています。
 その時イエス様が立ち上がってやって来られたのです。「およしなさい。せっかく向こうの村から来た人ではありませんか。お迎えしましょう。」神様の国はこのような子どもたちの国なのですよ。色々と心配したり、云いあいをする大人のようではなく、子どもたちのように何もかも神様に任せて楽しく過ごしていることが大切なのです。そしてイエス様は手を上げて子どもたちをお呼びになりました。イエス様は泣いていた子どもたちも抱き上げて優しくお話をされました。「みんな良い子になるんだよ、美しいお花のように、神様のお喜びになる光の子どもになるんだよ。みんながこれからの世界をつくり、神様のお喜びになる世界を作るのだからね。」
 子どもたちはうれしくなって、静かにイエス様のお話を聞いていました。気持ちの良い風がみんなの頬を撫でていました。

2017年6月23日金曜日

2017年6月4日

2017年6月4日 主日礼拝説教要旨
「聖霊に満つ」 宇野 稔牧師
使徒言行録2章1~11節
 「五旬節の日が来て」とルカは書き出していますが、ルカにとって大切だったのは「その日が来た」ということにあります。その日というのは「五旬祭」ということではなく「神の定めたその日」が来たということです。ルカは「時が満ちる」という表現を使います。この世界を動かしているのは「神の時」だということです。そして私たちは神の時が満ちるのを待ち望んでいるようにと呼びかけています。教会は神の時を待つ存在なのですから。ただ黙って座して待つのではなく、嵐の中に身をさらしながら、嵐の次に訪れる光の時を指し示すような姿です。
 同志社の創設者である新島襄は「庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く」という詩を残しました。これは逆境の中でも理想を求め待つ自らの姿が重ねられています。神の時を待ち望むキリスト者とはこのような存在なのです。弟子たちは主が約束して下さったその時を祈って待っていたのです。そこに聖霊が降るのです。神の出来事、神の時です。教会はこの世の中にあり、小さな存在かもしれません。強大で永遠不滅のように見えるローマ帝国が迫害しているという状況の中で使徒言行録は書かれています。それに対して教会が持っているものはただ一つでした。「希望」です。「神の勝利を信じる」ことです。それを待ち望むことです。
 「希望」とは将来を信じる心です。その根拠になるのは「たとえ今苦しくとも、自分には存在の意味がある」という確信です。この世界がどのように見えようとも神はあなたを必要としている。あなたが生きていることの意味、苦しんでいることの意味があるのです。私たちがなすべきことは、時がよくても悪くても神の時を待ち望むことなのです。
 寒梅が風雪の中で笑って咲くように、私たちもこの矛盾だらけの世の中で笑って真理を示して行こうではありませんか。神の時が満ちる時、私たちは聖霊に満ち、喜びにあふれて生きる勇気を得て歩むことが出来るのです。

2017年6月12日月曜日

2017年5月28日

2017年5月28日 主日礼拝説教要旨
「しっかりと立ちなさい」 宇野 稔牧師
フィリピの信徒への手紙3章17~4章1節
 4章1節は3章のまとめというだけでなくフィリピ書全体のまとめであるとも考えられます。先ず目に付くのは「愛し」「慕っている」「冠である」というパウロの言葉です。過剰な表現であるという感じは否めませんが、それほど感極まってこの手紙を書いているのでしょう。故に、1節はパウロの思いがこもっているわけです。
 それにしてもフィリピの教会の人全てを愛しているとは云い難いのではないでしょうか。中には意見の合わない、パウロに反対する人もいたに違いありません。「すべての人を愛する」と聞いて、「それは理想論に過ぎない」と反射的に思い「わたしは全ての人を愛せるほど強くない」と自己弁護するのです。イエスは、私たちに何も資格がないのに私たちを愛して下さったのです。それは十字架によって示されているのです。それは能力のあるものを愛する愛ではなく、資格のないものを愛する愛なのです。そしてその神に従うならば、相手の状況や相手の事態ではなく、それを越えて「愛し合う」というのがキリスト者なのです。パウロの言葉はその信仰に基づいています。人間として生きる時、私たちは他者をなかなか愛することが出来ません。しかし、もし私たちがイエス・キリストの前にまっすぐに立つ時自分の好き嫌いを越えてすべての人は「愛するもの」であり「喜び」であり「冠」であるのです。なぜならばその人もまたイエスに愛されているからです。時に「赦せない」「愛せない」という思いに駆られる時、イエスによってすでに赦されており、愛されているという事実の前に立っているのです。
 フィリピの教会は、大きな群れではなくむしろ小さな群れでした。しかし決して臆することはないとパウロは云うのです。どんな困難な状況にあっても「しっかり立って」と勧めています。イエスの福音に生きイエスの愛を知っている以上この世界のどんな力よりも大きな出来事なのです。イエスの愛を心に携えて出ていくのです。「愛する者よしっかりと立ちなさい」イエスからの約束の言葉です。

2017年6月5日月曜日

2017年5月21日

2017年5月21日 主日礼拝説教要旨
「風は止み、凪になった」 宇野 稔牧師
マルコによる福音書4章35~41節
 この箇所は一読すると、「イエスが自然の力をも従わせる権威をもっている」ということを伝えるための奇跡物語であると読めます。確かにそうした意味があることは間違いありません。しかし単純にイエスが自然を支配する力を持っているというだけでは現代を生きる私たちにはあまり重大な意味はないでしょう。この物語はもう一つの大切な意味を含んでいます。
 それを読み解くキーワードは41節の「従う」という言葉です。自然を教会が意のままに操ることが出来るということではないことを私たちも経験上知っています。船は教会共同体を指していると考えてよいでしょう。この船はイエスの命令によってガリラヤ湖の向こう岸に向かって出発します。イエスが集めた人々が乗っているのです。
 教会はイエスによって始められ、築かれてそこに人々が集められたのです。向こう岸という目標に向かって歩みだしているのです。私たちは神が出発を導いたのだから、事柄は順調に行くと考えがちです。しかし、現実の教会はそうではありません。問題が起こり、トラブルも存在します。それに加えて教会は国家からも民からも迫害を受けようとしていたのです。その悲鳴は祈りとなり「主よ、助けてください。溺れそうです」と、その時イエスが「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者よ」と語りかけています。この言葉は叱責ではなく困難に直面している人々(教会)を励ますための言葉だと解釈できます。
 この物語で確かに、イエス自ら風と湖を叱ると、風と湖も収まってしまうのです。そのイエスが船に同乗して下さっているのです。そのイエスが私たちの教会と共に歩んでくださっているのです。そこにこそ、私たちが困難に立ち向かう力の源泉があります。
 これは不信仰を叱責しているのではなく、困難の中にあっても右往左往している教会が希望を失わず、イエスと共に歩み続けるように励ます物語なのです。教会は2千年の歴史をこの希望によって歩み続けてきたのです。一歩進んでみましょう。