2017年11月27日月曜日

2017年11月12日

2017年11月12日 夕礼拝説教要旨
「待 望」 宇野稔牧師
マルコによる福音書 1:1~8節

 4つの福音書を読んで一つ不思議に思うことがあります。それはどの福音書にもバプテスマのヨハネのことは記されているということです。マルコ福音書などは主イエスご降誕をさえ省略しているのに、このバプテスマのヨハネのことは記されています。これは一体どういうことなのでしょうか。バプテスマのヨハネは、エルサレムから遣わされてきた人々から「あなたはどなたですか」と質問を受けた時「私は預言者イザヤが云ったように『主の道をまっすぐにせよ、荒れ野で呼ばれる者の声』である」と答えています。聖書に書かれているのは、彼が偉大な人物であったからでもなければ、すばらしいことをしたからでもありません。
彼が4つの福音書に等しく記されている訳は、ただ一つ彼が「主の道を備えよ、その道をまっすぐにせよ」と叫び声があったからなのです。このことは、イエス・キリストを信じる者としての「備え」の大切さを示しているのです。旧約のヨシュア記でヨシュアは7章13節において神から「あなたは身を清めて明日のために備えなさい」という言葉を聞いています。また預言者のアモスは神の助けを求める者は自ら備えを必要とすると述べています。
キリスト教の暦は降誕前節の時に入り降誕節となります。待降節はクリスマスを待望すると共に、再び来たり給う救い主を待ち望む期間であります。備えの伴わない待望は本当の待望ではありません。主は「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつであるかあなたがたにはわからないからである。」と戒めています。「主の道を備えよ、その道をまっすぐにせよ」との言葉は、換言すれば悔い改めよということです。悔い改めとは、世事に埋没しないで、主の前に己が道を備えることなのです。この世のことに埋没されやすい自分がしっかりと目を覚まし、語り給う主に備えるのです。それが待望の時なのです。

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