2017年11月21日火曜日

2017年11月5日

2017年11月5日 聖徒の日・召天者記念礼拝
「神の家族」 宇野 稔牧師
マルコによる福音書 3:31~35節
 愛する家族が皆さんに残されたものは何だったのでしょうか。その事を考えるのです。この所で特に目を引くのが「外に立つ」家族です。イエスが民衆を前に話している時、イエスの家族は外に立っていたのです。それには意味があって、ここでイエスは多くの弱く小さく貧しい人々から熱烈な支持を受けていましたが、指導的立場であったファリサイ派の人々はイエスを抹殺してしまおうとするのです。家族は、そのイエスの活動に不安を感じ、それを止めにやって来たと云うことでしょう。「外」という言葉は場所的空間的な意味以上に心情的な意味が強いのです。家族に対してイエスは「母とはだれか、兄弟とはだれか」と。
 イエスにとって新しい家族の創造それが34節「ここにいる」という宣言と「みこころを行う」事に決定的な要素をもつと云うのです。神のみこころを行う家族とはどのようなものでしょうか。それは先ず「神のみこころ」を知ること、一番明確にされる点はイエスの十字架に収斂されていて、その内容は愛です。家族の崩壊が叫ばれる今日にあって、この現象の根底にあるものは本当の愛の深さを知らないということなのです。本当の愛を知らないから突っ張った生き方しかできないのです。本当はそんなことは願っていないのに、傷つけ傷つけられて疲れ果てるような歩みをしているのです。
 この時代に「私のみこころを行う者こそ私の家族だ」というイエスの言葉は新しい響きを持ちます。イエスは家族の絆の本質が「愛」にあることを示されたのです。家族が崩壊しているということは、愛を見失っているということです。愛することがどういうことか判らなくなってしまっているのです。イエスはそのような私たちに「私のもとに来なさい。私のみこころを行いなさい」と奨めています。
 今日皆さんは家族を覚えてここに集いました。皆さんの愛する家族が残されたものは「愛」に違いありません。

0 件のコメント:

コメントを投稿