2017年12月26日火曜日

2017年12月10日

2017年12月10日 待降節第2主日(アドベント)礼拝説教要旨
  教会創立141周年記念「確実な教えを受け継ぐ」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 1:1~4節
 なぜルカは新しい福音書を書いたのでしょうか。マルコとルカを読み比べて見ると、ルカはマルコを下敷きにしながら多くの物語を書き加えていることが解ります。ルカは福音というものを、イエス・キリストと出会うことだと確信していたのであり、生き生きとしたイエスとの出会いの物語で願っていたに違いないのです。もう一つの視点は、順序正しくということです。ルカはクリスマスの起こった年を世界の歴史の中で明確に書こうとしています。さらにイエスの出来事がこの世界の中に、歴史の中に事実として起こったということを強調しているのです。福音というのは時代の中に位置づけられなければならないということです。イエスを救い主として生きるならば、この世界から浮き上がってはなりません。地に根を張りながら、心を高く上げて終わりの日に向かって生きるのです。そして預言者的人として語っていかねばなりません。
さて確実なもの(4節)とは何なのでしょうか。私たちは確実なものを持っているでしょうか。日本には土地神話、銀行神話、原発神話等があります。値下がりしない、つぶれない、安全で事故を起こさない。すべて神話がもろくも崩れ、今も私たちを脅かしています。確実なものは何もないことをひしひしと感じます。実はルカ福音書は80年代に書かれており、十字架の出来事から50年後のことです。イエスを直接知っている者もおらず、弟子たちも皆死んでいます。ユダヤ教から憎まれ、仲間はずれにされ、ローマ帝国から敵視される。これがルカの属していた教会の状況だったのです。不安と焦りの中にいる教会に、ルカはこの福音書を書くことで伝えたかったのです。「何も変わらない!」イエスが歩んだ時代を共に生きた弟子たちと、今ここで教会を形づくっている自分たちは何も変わっていないのです。
イエスが弟子たちと共にいて下さったように、私たちの共同体の中に一緒にいて下さるのです。その福音は「確実な教え」であると伝えるためにルカ福音書はあります。不変なものを信じるに足りるもの「神」であり「イエス・キリスト」です。確実な教えそれが福音です。平安教会の141年の歩みがその証なのです。


2017年12月18日月曜日

2017年12月3日


2017年12月11日月曜日

2017年11月26日

2017年11月26日 降誕前第5主日 収穫感謝日合同礼拝説教要旨
「悪い土にも」 桝田翔希伝道師
マルコによる福音書 4:1~9節

 平安教会にきて、農園部の活動に参加させていただき、はじめて畑というものに関わりましたが、思っていたよりも大変なものでありました。なぜ大変と感じたかというと、畑の土が非常に硬いのです。粘土質で非常に土が硬いのです。雨の降らない日が続くと土は水分を失い、カチカチに硬くなってしまいます。こんな土で野菜が育つのかなぁと思っていたのですが、そんな土でもしっかり世話してやると、大きな実りが与えられることを教えられました。さて今回の聖書箇所では種蒔きを通した話が紹介されています。良い土地に蒔かれた種は多くの実りが与えられるが、悪い土地に蒔かれた種はあまり実りをもたらさなかったことが語られています。
イエスが生きた時代、田舎の土地は都会の大金持ちに支配され始めていました。自分たちが働いた分だけ生きるという生活ではなく、働いた分以上の収入を得る人たちが現れ、一方では不当な商売に巻き込まれる人たちが多くいたようです。そのような社会にあってイエスは田舎で生き、多くの貧しい農民たちと過ごしていたことが考えられます。この話が語られた背景には、良い土地に種をまきたいけれども、金持ちの地主や借金のせいで、悪い土地にしか自分たちの食べるための種をまくことが出来なかった人たちの生活があるのではないでしょうか。イエスは悪い土地からでも与えられる恵みも語っていたのかもしれません。
 私たち自身を神のみ言葉を聞く畑であると考えますと、自分自身に貧しい気持ちを覚え、貧しい畑のように思える時も多いのではないでしょうか。しかし決して良い土とは言えない私たちであっても雨が降り、陽が注がれるなかで実を結ぶのです。実を結ぶまでには、様々な手入れが必要かもしれません。しかし、あきらめずに耕し続けることが大切なのではないでしょうか。作物も、私たちの良い心も、全て神が与えて下さるのです。

2017年12月4日月曜日

2017年11月19日

2017年11月19日 降誕前節第6主日礼拝説教要旨
「ともし火を高く上げよう」 宇野稔牧師
ルカによる福音書 8:16~18節

 2000年前の人々は経験的に、闇の中に輝くともし火の力を知っていたのでしょう。ですからイエス・キリストがこの世界に来て下さったという喜びの知らせを「ともし火」と表現しました。16節で語られていることもそのことです。ともし火を隠す人はいないはずです。一見当たり前のことを述べているのですが、ここにはイエスの当時の社会に対する批判が込められているのです。ともし火は神の御旨だったに違いありません。本来神のことを語るべき大祭司たち、ファリサイ派や律法学者たちは、その神の愛を人々から隠してしまっていたのです。ともし火は消えるかもしれないという可能性をはらんでいます。それが当時の社会の状態でした。厳しい迫害の中でこの福音書は書かれているのです。福音は文字通り風前のともし火だったのです。歴史の風の中で消えていく可能性を感じさせる程に弱い存在だったと云ってもよいでしょう。
 しかし、その迫害の中でもルカが確信しているのは、風前のともし火のように弱い存在に映るかもしれないが、福音こそが闇の世の中に輝くともし火であるということです。ともし火、つまり福音の言葉は「どう聞くべきか」が大事なのです。「ともし火」自体が問題なのではなく、それをどう受け止めるかという私たちの側の問題として、ルカは「どう聞くべきか注意しなさい(18節)」と語ります。福音を聞く時に、それは「決して諦めない」ということです。ともし火は、この世界の中では小さく弱いものに見えます。福音がそうであるように愛や平和も「ともし火」のような存在です。時代の強風の中に怯えるような心境になることもあります。でも諦めてはいけません。ともし火をかかげ続けるのです。
 神は愛であり、その愛こそ最も偉大なものであることを啓示されているのです。やがてこのともし火が、愛と平和がこの世界を包み込むのです。故に一層ともし火を高くかかげ、諦めないで粘り強く、希望と信仰をもって愛と平和のともし火をかかげ続けましょう。