2018年4月9日月曜日

2018年4月1日

2018年4月1日 復活節第1主日礼拝説教要旨
  「新たな歩みへ披(ひら)かれて」 小﨑眞牧師
  ヨハネによる福音書 20:24~29節

 今年度、平安教会の代務者として招かれ心より感謝致します。さらに本日のイースターには受洗者も与えられ、不思議な出会いと導きを大変嬉しく思います。さてトマスの伝承を通して主イエスの復活の喜びに出会いたく思います。私たちの多くは「見ないで信じること」の意義を学ぼうとしてきました。その姿勢は聖書の中で重要なテーマでもあります。しかし、私たちは日常生活の中で自身が体験した「過去の物語:見た事、聞いた事」」に常に縛られています。そもそも聖書の中で、信じることは「人間の側からの何ものかではなく、主の側からの何ものかであり」、「信じることのできる原動力、主導権は神の側」にあると理解されてきました(小野一郎『ヨハネによる福音書』)。一方、「見ないのに信じる」姿勢は倫理のごとく迫り、その姿勢を絶対化します。「見て信じる」姿勢は不信仰なのでしょうか。その責任は人間にあるのでしょうか。
 山浦玄嗣(ケセン語聖書翻訳者として著名)さんはこの箇所を「しょぼくれるなトマス」との副題を付けケセン語(東北ケセン地方の言葉)で翻訳しています(『ガリラヤのイエシュー』)。彼は復活の主とトマスの言葉の行間に本質を聴取します。弟子集団に居ながらも孤独感や寂寥感にさいなまれるトマスに関心を払いつつ以下のごとく記します。
お前はその眼で俺を見だからやっと本気にしたが?
      んでもな、いいんだ、気にすんな!当たり前だ。
 「気にすんな!当たり前だ」とのイエスの語りは多くの励ましを与えます。私たちの信仰生活においても想定外の出来事に対して「なぜ私が」との嘆きや疑いを発する場面があります。この人間の悲嘆の只中に主が介入する事実をトマスの伝承は語っています。以下の言葉を通し主イエスの真理に出会いたく思います。
人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか、人間は神様に会うことはできない。(森有正『土の器に』)
 恥じや苦悩の只中にある私たちに対して、主イエスは十字架上の傷を示し、痛みを分かち合おう(共苦)と迫ってきます。ここに私たちの思いを超えた新たな世界が切り披かれ、イースターの喜びが創出します。

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